- 2022年05月29日更新
仙之助編 八の二
ギギギー、ギギギギー。
ギギギー。
仙之助たちは、斜めに傾いた船室で床に置いた荷物と共にずるずると体をもてあそばれていた。船体のきしむ音はいよいよ大きくなり、もう駄目かと思った瞬間、ふいに体が宙に浮いたような感じになった。
ドスンと床に体を打ち付けられて、気づくと船室の床が水平になっていた。
ぴたりと揺れが収まっていた。
クレマチス号はモロゾバヤ湾に入ったのだった。
ダニエル船長からようやく許しが出て、仙之助たちは甲板に出た。
目の前に荒涼とした海岸線が広がっていた。
砂浜ではなく、ゴロゴロとした石の転がった浜で、茶色い草のようなものが波打ち際に沿って見える。その形状から昆布であることを仙之助は見て取った。
その先には背の低い草が一面に生えていて、ビュービューと風になびいている。
もう少し近づいて上陸できないものかと仙之助は期待したが、ダニエルの判断は慎重だった。うっかり近づいて座礁しては元も子もない。腕利きの船長である彼にとっても、限られた情報しかない湾だった。
夕方近くになって、低く垂れ込めた厚い雲の間から太陽が顔を覗かせた。
まもなくまばゆいばかりの夕陽が空と海をオレンジ色に染めた。オホーツク海の自然は厳しいぶんだけ美しい。日が沈むと満天の星空だった。
クレマチス号は一晩湾内に留まって、翌朝早く出帆した。
波は穏やかになり、程よく吹く風が帆船をなめらかに進ませる。嵐の一夜はオホーツク海に夏の終わりを告げるものだったのか、日差しにも秋の気配が感じられた。
再び船の揺れがぴたりと止まった。大きな湾に入ったのだった。
クレマチス号は静かにペドロパブロフスク・カムチャスキーの港をめざした。
大きな港に入るのは函館以来のことだった。
仙之助が目を見張ったのは、前方にまるで富士山としか思えない円錐形の美しい山がそびえていたことだ。
「フジヤマによく似ているだろう。故郷が恋しいか」
ダニエル船長が仙之助に言った。
「いえ、恋しくはありません。これは何という山ですか」
「ロシア語でアバチャ山と呼ぶ。このアバチャ湾と同じ名前だ」
「美しい山は、みな富士山のような姿をしているのですね」
「ハハハ、そうかもしれんな」
山の姿は富士山によく似ていたが、目の前に広がるのは横浜や江戸とは全く異なる針葉樹の森と見慣れない異国の街並みだった。