- 2022年08月07日更新
仙之助編 八の十二
崖の背後から湧き上がる雲は、暴れる竜のように動きが速かった。縦横無尽に光は遮られたり、山肌を照らしたりした。めまぐるしく変化する光の中で、ナパリ海岸にかかる虹は消えかかっては、再びあらわれた。
人の住まない海岸であるならば、クレマチス号の乗組員たちしか、この美しい虹を見ていないことになる。そう思うと、仙之助の心は震えた。
自分たちだけが選ばれて、神々と交信しているような気がした。
「ハワイは風の島であると同時に、虹の島でもあるのですね」
「虹の島……、そうだな」
ラニは静かに言葉をつなげた。
「俺たちは頻繁に虹を見ている。雨が降れば、たいていその後に虹が出る。だから、虹を呼ぶたくさんの言葉がある。捕鯨船に乗って初めて、ハワイほど虹がよく出る土地はないことを知った。離れてみて、虹の島であることに気づいたよ」
仙之助はハワイ語では虹を呼ぶ言葉がたくさんあると聞いて、牛をめぐる英単語を学んだ時のことを思い出した。日本語では「牛」としか呼ばないが、英語ではCow、Cattle、Beef、すなわち動物としての牛、家畜としての牛、牛肉と表現する意味の違いからさまざまな言葉がある。その代わり、日本語では、さまざまな呼び名がある米が英語では単にRice なのだった。
世界には知らないことがたくさんある。自分たちの生きる世界で常識だったことが、よその国に行くと常識ではなくなる。だからこそ面白い。広い世界を知りたい、見たことのない風景を見たい。そのためにはどんな苦労も厭わないと、仙之助はあらためて思った。
武者震いのような感覚が全身を駆け抜け、再び涙が頬を伝った。
虹を見た感涙とも違う涙だった。
こんなに涙が止まらなくなったのは仙太郎が亡くなった時以来だと思った。そして、仙太郎のことを思うと、複雑な心境がさらに涙を誘った。
いつしか虹は消え、霧雨も止んでいた。
仙之助は頬の涙を両手で必死に拭った。
クレマチス号がナパリ海岸を離れ、カウアイ島が再び遠ざかる頃、真っ赤な夕陽が水平線に沈んだ。崖にかかっていた雲は風にちぎれ、空全体に魚の鱗のように広がっていた。その雲に夕陽から放たれた鮮烈なオレンジ色が反射する。
嵐の夜明けから始まった感動的な一日が終わろうとしていた。
夕陽に見入りながら、隣にラニがいないことに気づいて、仙之助は慌てて仕事の持ち場に戻った。上級船員に夕食のサービスを始める時間だった。
ダニエル船長の指示に従い、横浜から積み込んだ上等の赤葡萄酒の最後の一本をあけてワイングラスに注いだ。ラニと仙之助が給仕する最後の夕食だった。
翌日はいよいよホノルルに入港する。夜が明ければ、オアフ島が見えるはずだった。