- 2022年11月27日更新
仙之助編 十の四
横浜には、よからぬ噂が立ち始めていた。
「日本人が奴隷として売られるらしいぞ」
「天竺に連れていかれて生き血を吸われるそうだ」
「女子どももいるらしいぞ、かわいそうに」
人々は港に係留されたサイオト号を見て、寄ると触るとささやきあった。
交渉がこじれたのは、条約の締結がなかったこと以上に、新政府の役人たちが一介の商人であるヴァン・リードを多分に胡散臭く思っていたからだ。そうしたことが役所からそれとなく伝わり巷の噂になったのだろう。
噂は山口粂蔵の耳にも入ったが、ヴァン・リードの手引きで捕鯨船に乗った仙之助が無事、ハワイに到着して元気に暮らしているという手紙を読んでいたから気にとめなかった。
出発する気配のないサイオト号にもよからぬ噂だけが流れてきた。
横浜の警備に着任した肥前佐賀藩が移民の船出に反対して差し止めにやってくるというものだった。船内の移民たちは敏感になり、風の音や岸壁を打つ波の音がするたび、役人の襲撃ではないかと恐れおののいた。
諦める気配のないヴァン・リードに新政府は、条件付きの返事をよこしてきた。出稼ぎ移民を間違いなく帰国させること、それを各国公使が保証して一筆入れるのであれば許可しようと言うのだ。公使の保証など取り付けられるはずがないと踏んでの回答だった。
ヴァン・リードは、英国公使のハリー・パークスが好意を見せてきたことに、なんとかなるだろうと高をくくった。そして要求に応じる意志があると回答した。
だが、案の定、公使の保証をとりつけられないまま、新政府の許可証を催促するヴァン・リードに役人たちは無視を決め込んだ。
サイオト号のレーガン船長からも催促が続いていた。
五月十六日、移民たちが乗船して十日間が過ぎていた。
今さらのように、幕府から発給された旅券を新政府に渡してしまったことが悔やまれた。前政権のものとはいえ、なぜそのまま手元においておかなかったのか。
万策尽き、窮地に立ったヴァン・リードはついに意を決した。
旅券がないまま、サイオト号をハワイに向けて出港させることにしたのだ。
ヴァン・リードは、外国事務局判事の寺島に最後通牒を送った。
旧幕府の許可した既得権を認めないのは、国際法上の不法行為であると、新政府の責任を追及し、誠意を促すと共に、出港は英国船の権限であるから、自分に責任はないと付け加えた。責任回避をしながらも、渡航許可がおりることを諦めてはいなかった。
ヴァン・リードからの報告を受け、サイオト号のレーガン船長は、税関に出港許可を申請し、その許可証を英国大使館に提示した。これでいつでも出発できる。
航海中の揺れを防ぐため、船底に砂が積み込まれ、食糧と水の補給も終わった。
準備万端整い、ヴァン・リードは寺島からの返事を待っていた。