- 2023年06月18日更新
仙之助編 十二の八
日本人移民の一行が、コウラウ耕地をめざしてホノルルのダウンタウンを発ったのは、夜明け前、漆黒の闇が薄い藍色に変わっていく時刻だった。空には明けの明星が輝いていた。
仙之助は、ラニと共に上陸した日のことを思い出していた。
あの時は、身を伏せるために夜明け前を選んだが、今回はコウラウ耕地までの長い道のりを考えての早立ちだった。一本道で迷うことはないと聞いていたが、物知り顔で案内している仙之助も初めての道だったから、なおさらに余裕をみたのである。
ヌウアヌ通りを抜けて渓谷に向かって進む。
エマ女王の離宮に向かう方角である。
休暇の遠足で歩いた同じ道を旅支度で歩む。陽気にはしゃいでいたあの時と違い、誰もが神妙な顔つきで言葉少なだった。
夜明けの薄暗さもあいまって、同じ道が違う風景のようにも見えた。熱帯の鬱蒼とした植物は、太陽が燦々と降り注ぐ下では輝くように美しいが、光が陰ると、恐ろしげにも見える。
道の両側に大きな枝ぶりのバニアンツリーが迫るように生い茂っていた。
道はだんだんと傾斜が増し、歩く者たちの息もあがってきた。
ただひとり、元気が良いのがマムシの市こと、石村市五郎だった。
先頭を行く富三郎と仙之助の隣で、盛んにいろいろなことを聞いてくる。
「これから峠を越えるのですね」
「そうだ、ヌウアヌ・パリだ」
「ヌウアヌは通りの名前でもあり、渓谷の名前でもあるから、パリが峠の意味ですね」
ものごとの洞察が早い少年だった。学問をする機会があれば、大成するに違いない。
峠道にさしかかると、にわかに風が強くなってきた。
熱帯とは思えない冷涼な風だった。こんなに冷たい風を感じるのは、カムチャッカの夏以来だと仙之助は思った。汗ばんだ体に心地よかったが、風はなおも強く吹き、寒さを感じるほどになった。足下からも吹き上げてくるような風に歩む速度も遅くなる。
だが、嵐というのではなかった。雲は立ちこめていたが、雨は降っていない。
まもなく前方に険しい山の峰が見えてきた。
「うわああ」
先頭を行く仙之助は思わず声をあげた。
「どうした、どうした」
富三郎と市五郎が駆け上がってくる。
突然、視界が開けたのだ。
絶景としか言いようのない風景が広がっていた。崖の下には一面の森と平原が広がり、左手には屏風のような山脈が迫る。その先には青い海が見えていた。
そうか、ここが峠なのか。仙之助は驚きの表情を包み隠し、後ろを振り返り言った。
「ヌウアヌ・パリに着いたぞ」