- 2023年11月12日更新
仙之助編 十四の五
一八七〇年一月二十日、重責を全うした上野景範使節の一行は、ホノルル港からサンフランシスコに向けて出帆した。桟橋には、富三郎以下、オアフ島在住の移民たちが集まって、恩人の帰国を見送った。
移民たちの送還は、彼らの書記に任命されたフーバーに一任された。
帰国希望者は四十人、ハワイ上陸後に生まれた二世の新太郎と、捕鯨船に助けられて、ハワイ在住だった漂流民の二人も帰国を希望し、一行に加わった。
何らかの理由で捕鯨船に乗った日本人がハワイに流れ着くことは仙之助以外にもあったことだったのだ。仙之助が彼らと違ったのは、英語を話す乗組員として、自らの意志で、ハワイまで来て下船し、再び自らの意志で、ハワイから捕鯨船に乗り組んだことだった。
総勢四十三人の日本人は、フーバーの計らいで、使節の帰国からほどなくして、ホノルルから直接、横浜に向かうR・H・ウッド号に乗船し、サンフランシスコ経由で定期航路に乗り継いだ使節一行より先に横浜に到着したのだった。
その後、サトウキビ・プランテーションでの待遇や報酬が格段に向上した訳ではなかったが、ほかの外国人労働者との待遇格差はあらためられ、大きな問題はなくなった。自ら残留したのは野心と順応性のある者だったことも理由と言えた。
最年少のマムシの市こと、石村市五郎はもちろん残留組のひとりだった。
彼らの働いていたコウラウ耕地のワイルダー・プランテーションは、オーナーの息子の事故死をきっかけに悪い噂がたったこともあり、上野使節の来訪からまもなくして経営が立ちゆかなくなり、廃業してしまった。だが、移民としての契約はまだ残っていたので、希望者は同じ元年者が入植していたマウイ島のハイク耕地に移ることになった。
一番に手をあげたのがマムシの市だった。
マウイ島は、捕鯨の基地として栄えたところでもある。ホノルル以前の首都であったラハイナは西マウイにあり、ハイクはそれとは反対の東マウイにあった。ホノルルから帆船で二昼夜かけて到着したのは、マリコ・ガルチと呼ばれる切り立った崖に囲まれた入り江だった。マムシの市たちは、そこから徒歩で目的地に向かった。
ハイク耕地は一八六一年から操業が始まったプランテーションで、コウラウ耕地にもまして、人里離れた寂しいところにあったが、工場には最新鋭の機械が設置されていた。ハワイで最初にサトウキビの精製に蒸気機関を導入したところでもある。
元年者の契約期間が終わる年、一八七一年に工場主として着任したサミュエル・T・アレクサンダーは、のちに合流するヘンリー・P・ボールドウィンと共にハイクをさらに発展させることになる。先見の明のあった彼らは、後に次なる産業として、ハワイで最初のパイナップル・プランテーションを切り拓き、缶詰の工場を建設した。
マムシの市は、ハイク耕地に入植していたウミウミ松こと、桑田松五郎という髭男とたちまち意気投合した。契約期間を勤め上げた後もハワイにとどまり、何か大きなことを成し遂げたい野心が、彼らを結びつけたのだった。