- 2024年03月10日更新
仙之助編 十五の八
仙之助が再びの海外渡航を希望していて、伊藤という若い役人が何らかの便宜を図ってくれる可能性があると高島に言われたことをトメは粂蔵から聞いていた。
だが、遊びに来ている客にいきなり頼み事をする訳にもいかない。
まずは、伊藤に神風楼を気に入ってもらい、親しくなることが先決と考えた。いずれにしても神風楼に政府高官の客がつくのは願ってもないことだった。
トメは頃合いを見はからって、座敷に酒と料理を運んだ。
遊女の膝枕で寝ている伊藤を見て、トメは慌てて障子を閉めようとしたが、そのまま入るようにと手招きをされた。
「おハルは、メリケンの言葉を話すのだな」
「はい、以前におりました女郎で、贔屓の異人がいた娘から教わったと聞きました」
「神風楼は、以前から異人が多いのか」
「もともとは、横浜で異人の客をとるのは岩亀楼だけと決まっておりました。維新の年に主人がお上にかけあって、正式に異人の客をとれるようになりまして、異人さんにも贔屓にして頂いております。おハルにメリケンの言葉を教えた女郎が贔屓だったのは、なんでも、こっそり通ってこられた日本語の達者な異人さんだったと聞いております」
「ほう、そうか。メリケンに出発する前に、こんなところで言葉の稽古が出来るとは思わなかったぞ。神風楼は高島さんの言うとおり、面白い店だな」
伊藤は豪快に笑った。
トメは、そのひと言を聞きのがさなかった。
「メリケンにいらっしゃるのでございますか」
「そうだ」
「大勢でいらっしゃるのですか」
「ほほう、女将も異国に興味があるのか」
「横浜で商売をしていれば、異国は身近なものです。興味はございます」
「女将も行ってみたいか」
「はい、もちろん」
トメはそう言って笑った。
「徳川の世が終わって、海を渡ることは禁制ではなくなったからな」
「ご出発は近いのですか」
「おいおい、ずいぶんと興味があるようだな」
「神風楼で壮行会でも催して頂ければと思いまして」
「そうだな。あいにく出発が迫っているのだが、検討しておこう。何しろ横浜だからな。出航の前日だって、かまやしないな」
「もちろんですとも。出航はいつでいらっしゃいますか」
「十一月十二日だ」