- 2024年06月23日更新
仙之助編 十六の十一
山口仙之助の免状(旅券)が発給されたのは、明治四年十二月十三日のことだった。
渡された書類は、役人が「ご印章」と呼ぶ本状と、「規則」と題された渡航先での注意事項をまとめた書状の二通だった。
仙之助は、感慨深くこれらを受け取った。いよいよ旅立ちだという実感が沸いてくる。
英語のPassportに対して、旅券という訳語が正式に使われるのは、明治十一年のことである。それまでは、旅券は一般に免状などと呼ばれ、正式にはご印章と称した。
規則には、海外に行くにあたっては覚悟を決め、身を慎み、金銭面の不始末をすることなく、日本人同士は助け合い、外国人とは諍いをおこすな、ご印章を紛失することのないように、そして、勝手に移住や改宗をするなといったことが記されていた。
キリスト教の禁教政策が廃止になるのは明治六年のことであり、仙之助が受け取った規則には、いまだ改宗が厳しく戒められていた。
事細かな注意事項は、開国まもない新生国家、日本の矜持でもあった。
役所を出た仙之助は、大急ぎで高島町に戻った。
転げるように玄関に駆け込むと、息せき切って粂蔵とトメに報告した。
「よかったな。さすがに心配したぞ」
粂蔵は安堵した笑顔で言った。
「仙之助さん、ご心配はいらないと申し上げた通りでしたでしょう。でも、よかった」
トメはいつも通りの明るさで応じた。
「ありがとうございました。これで……、これで、出発できます」
仙之助の目に思わず涙が浮かんだ。出発は二日後の十二月十五日に迫っていた。
「今夜は送別の宴だな」
「宴は祝言で充分にして頂きました」
「何を言っている、それとこれは違うだろう」
「そうですとも。祝言は仙之助さんと私と神風楼のための宴、今宵は仙之助さんのための宴です。さあ、忙しい、忙しい」
トメは、頬を紅潮させて廊下を駆けていった。
廊下を反対側からやって来たのがヒサだった。玄関での大騒ぎを聞きつけたらしかった。
「仙之助さん、ついに渡航の準備が整われたのですね」
「異国に行ってよろしいという免状をお役所で頂いてきたところだよ」
「おめでとうございます。でも、少しだけ……、ヒサはさみしいです」
「えっ?」
トメからは決して聞くことのなかった言葉を聞いて、仙之助は戸惑った。
「仙之助さんにお勉強を教わることが出来なくなってしまいます」
「そうか、そうだな。ヒサは賢いから、ひとりでも大丈夫だよ」
次の瞬間、ヒサは、仙之助に情愛を示すような表情をした。