山口由美
2024年09月01日更新

仙之助編 十七の八

岩倉使節団はオークランドでセントラル・パシフィック鉄道の車両に乗車した。

日本で最初の鉄道が開業するのは、一八七二年の十月。すなわち、欧米視察の経験がある者以外は、初めて目にする蒸気機関車だったことになる。

欧州で鉄道に乗った経験がある者も寝台車を目にするのは初めてだった。

オリエント急行に代表される国境をまたいで走行する寝台列車が欧州に登場するのは、一八八〇年代以降のことだ。アメリカの大陸横断鉄道に連結されたプルマン社の車両に驚いた欧州の人たちがこれを真似たとされる。一八五九年に開業したアメリカの大陸横断鉄道は、欧州の鉄道さえ凌駕する、最新鋭の交通機関だったのである。使節団の面々が寝台車の設えに驚いたのも無理はない。

一等の寝台車は、両側の車両をそれぞれに六つの客室に分け、各室には二人ずつ乗客が入る設計になっていた。中央には通路、両端の広いスペースにはストーブが焚かれ、さらに洗面台、用水タンク、便所といった水回りの設備が備えられていた。床にはカーペットが敷き詰められ、日中は各室の真ん中にテーブルを設える仕掛けがあり、それを挟んで長椅子が相対する。ここで、読み書きをしたり、会話を楽しんだりすることができた。夜には長椅子が寝床になり、上方の鉤を外すと、もうひとつの寝床が下りてきて上下二段の寝台になった。布団や枕が備えられ、カーテンを下ろして就寝する。華やかな花模様があしらわれた天井、黄金や華やかな色彩の塗料を使った内装は、宮殿のように豪華だった。

総勢百名余りの一行は、一車両で二十四名を収容する車両を五つ貸し切った。

オークランドを出発した使節団は、サクラメントで途中下車をして当地一番の宿であるオルレアン・ホテルに宿泊した。

カルフォルニア州の州都でもあるサクラメントは、セントラル・パシフィック鉄道の本拠地だった。四人のサクラメントの実業家、通称「ビックフォー」が設立した会社である。ここで蒸気機関車の製造工場と議事堂を訪問するのが目的だった。

サンフランシスコをブームタウンに押し上げたゴールドラッシュは、もともとサクラメント郊外のサッター砦で黄金が発見されたことに端を発する。使節団が途中下車をしたのは、西海岸の歴史を象徴する都市だったからだろう。二月一日の夜は、市をあげての歓迎会が催され、その後、ゆっくり休む間もなく、深夜三時に再び列車に乗り込んだ。

サクラメントを過ぎると、鉄路はシエラネバダ山脈の山越えにさしかかる。

西部開拓の大きな妨げになったのが、大陸の南北を縦断するシエラネバダ山脈だった。北部のロッキー山脈よりも、山々の標高はシエラネバダのほうが高い。

セントラル・パシフィック鉄道の開発においても最大の難所であり、発明されたばかりのニトログリセリンを用いて固い岩盤を発破したが、多くの犠牲者を出したという。

平地から一転して、壁のようにそそり立つ山脈を汽車は蛇行するように迂回しながら登っていった。ゴールドラッシュは終焉していたが、山中には金採取を目的とする小村が、いまもなお点在し、金鉱山が大きな産業であり続けているのが見て取れた。

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次回更新日 2024年9月8日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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