山口由美
2020年02月23日更新
画 しゅんしゅん

三の八

智寿子は、笑ってうなずいていた。

生意気な高校生の戯言として聞き流していたのか。あるいは、出世作の後、ことさらに作家の興味を引くテーマではなかったのか。彼女が、再び富士屋ホテルの小説を書くことはなかった。

富士屋ホテルは私が書く、という大仰な宣言を作家にしたことの恥ずかしさは、時がたつにつれて大きくなった。私は、智寿子のように早熟な才能に恵まれていたわけでもなく、ことさらに文学と向きあうこともなく、ひとつの作品も生み出すこともなく、ただ漫然と大学生になったからだ。

一九八〇年代初頭、在籍していた大学のキャンパスは、やがて訪れるバブル景気を先取りしたような、華やかさと豊かさを謳歌する価値観と浮ついた空気に満たされていた。

私はテニスの同好会に入り、エンジェルフライトというブランドのフレアパンツをはいて、ムートンの毛皮のコートをまとい、六本木のディスコに通い、後になって考えてみると、人生観の合わない男との恋に一喜一憂した。

ミラーボールのきらめくディスコのフロアで、ダンスナンバーの合間にスローなラブソングがかかると、チークタイムになる。そこで、意中の男に声をかけられ、体を寄せ合って音楽に身を委ねる時間が至福に思えたのは、時代の空気がかけた魔法だったのか。

それでも、私の意識から富士屋ホテルが消えることはなかった。

なぜなら、富士屋ホテルもまた、人々の憧れをかりたてるものとして、私の子供時代と変ることなく、時代の華やかさの中に存在していたからだ。休暇のたびに、多くの友人が箱根に遊びに来た。誰もが、富士屋ホテルでのお茶や食事を目当てにしていたことは言うまでもない。夏であれば、山の水を引いたプールで泳いだ。

父祐司は、役員になっていた。そうした富士屋ホテルとの関係性が、私という個人に偏った虚像を映す。そのたびに虎造と出会った頃に像を結んだ自己認識が、再び揺らぐのを感じた。

私は何者なのか。その問いに、富士屋ホテルが交錯する。

明治時代に建てられた古い客室棟、ハーミテージが壊されたのは、そうした思いに揺れていたさなかだった。

富士屋ホテルハーミテージ

白い瀟洒な洋館で、庭の奥にひっそりと立っていた。大正時代、その場所に移築された後、「隠者の庵」を意味する「ハーミテージ」という名称がつけられた。私は、ハーミテージという単語の響きと、建物の雰囲気が大好きだった。

ところが、ある日、富士屋ホテルを訪れると、ハーミテージの立っていた場所は更地になり、小さなブランコが揺れていた。

それを見たときの、胸にぽっかり穴があいたような気持ちをどう説明したらいいのかわからない。私は、体の一部をもぎ取られたような喪失感を感じていた。

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次回更新日 2020年3月1日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお