- 2021年01月10日更新
仙之助編 二の十二
ユージン・ヴァン・リードとジョセフ・ヒコはシーサーペント号で香港に到着すると、早速アメリカ領事館に出向いて日本に渡る方策を探った。すると、横浜の開港にあわせてハリス駐日弁理公使とドール神奈川総領事が赴任することがわかった。彼らは上海にいる。今から上海に行けば、彼らが赴任する船に乗せてもらえるだろうと言うのだ。
二人は迷うことなく上海をめざした。
ジョセフ・ヒコはハリス公使の通訳、ヴァン・リードはドール総領事の書記として、二人は、それぞれ船に乗り込む名目を手にすることができた。
ハリス公使は艦船ミシシッピ号、ドール総領事は上海のハード商会が所有する小型帆船のウォンダラー号と、異なる船で出発することになった。ヴァン・リードとジョセフ・ヒコも、それぞれ雇われ主と同じ船に乗った。
最初に寄港したのは、五年前にペリーが来航した下田だった。ミシシッピ号とウォンダラー号はここで合流し、地元の艀を雇い、横浜に向けて出発した。
風のない朝だった。蒸気エンジンの動力があるミシシッピ号は、帆船のウォンダラー号と艀を曳航して進んだ。正午頃に浦賀を通過。この頃から南西の微風が吹き始めた。
一八五九(安政六)年六月三十日の午後三時半、二隻の船は水先案内の艀と共に横浜に入港した。七月四日と決められた開港の五日前のことだった。
横浜港では、羽織袴に刀を差した税関の役人が出迎えた。ヴァン・リードは彼らの身につけているものと話す言葉に興味津々だった。ジョセフ・ヒコは帰化証明書を握りしめ、彼らが自分をアメリカ人として扱うかどうかに気をもんでいた。キリスト教徒の彼が日本人とみなされたなら、どんな拷問が待っているかわからなかったからだ。
上陸までは、しばらくの時間がかかった。領事館の場所でもめたためだ。幕府が用意したのは横浜の港に近い新築の建物だった。だが、アメリカ側は、条約で定めた通り東海道の宿場である神奈川宿を要求した。折衝の結果、港を見下ろす高台にある仏教寺院がアメリカ領事館として割り当てられることになった。寺の名前を本覚寺といった。
開港の日、七月四日は雲一つなく晴れ渡った。午前十時すぎ、一行は満を持して上陸した。すなわち、ハリス公使とドール総領事、ミシシッピ号の艦長と士官たち、そしてジョセフ・ヒコとヴァン・リードの面々である。
寺の墓地に一本の見上げるような大木があった。彼らは、そのてっぺんの枝に棒を結びつけて旗竿にすることを思いついた。正午少し前に一行は本覚寺の墓地に入り、木の枝の旗竿に旗をあげた。青い星と赤いストライプの星条旗である。青空に国旗が翻るのを見ながら、彼らは厳かにアメリカ合衆国国歌を合唱し、ミシシッピ号から持参してきたシャンパンを抜き、口々に
「 The stars and stripes forever (星条旗よ、永遠なれ)」と言い乾杯した。
その後、本堂で日本に上陸して初めての昼食がふるまわれた。魚、ゆでた鶏肉、アヒルのロースト、野菜などが豪勢に並んだ。牛肉はなかったが、精一杯のごちそうだった。
七月四日はアメリカの独立記念日だ。祝宴は、そのお祝いもかねていた。