- 2021年10月31日更新
仙之助編 五の十
仙之助は目を輝かせて、ヴァン・リードが語るこの世の極楽浄土の話に聞き入った。
太平洋の真ん中にある群島で、一年中、浴衣で過ごせるような常夏の気候に恵まれている。日差しは強いが、海を渡る貿易風が心地よく、横浜や江戸の夏のように蒸し暑いことはない。島の至るところに南国特有の花が咲き、馥郁とした花の香りを含んだ風に吹かれる気持ちよさは、極楽浄土以外の何ものでもないと、ヴァン・リードは熱弁した。
群島は欧米の地図には、サンドウイッチ諸島と記載されていたが、王国の名称であり、先住民たちの呼び名である Hawaii 、すなわちハワイこそが、この美しい島々にはふさわしいとヴァン・リードは思っていた。
ハワイ王国の日本総領事という肩書きは、彼の野望と自負心を満たすものだったが、それだけがこの任務を引き受けた理由ではない。日本とハワイは、国のありようは対照的だったが、太平洋の小国として、共通する危うさがあると思っていた。二つの国がつながりを持つことは何らかの意味を持つに違いない。
初代カメハメハは、外国から武器を手に入れて諸島を統一した。ハワイ王国は、成立の最初から外国人の影響を受けていた。
ハワイでは外国人のことを「ハオレ」と呼ぶ。ハワイ以外の人という意味だが、もっぱら欧米人のことを指している。
日本人が呼ぶ「異人」も同じような意味である。
だが、一方で日本人は「攘夷」という外国人排斥のテロリズムの思想において、「さげすむべき敵」という意味の「夷狄」という呼び名を外国人に与えた。
日本は長く国を閉ざすことで、自立した政治と経済を維持してきた。徳川幕府が弱体化した今は、諸藩がそれぞれ外国勢力と結びついているが、彼らは、いつも外国人を警戒している。そうした激しい拒絶はハワイにはない。
ハオレは王国の統治に西欧式の仕組みを導入することで、政治に介入し、自分たちに有利な法を制定して土地を手に入れた。王女たちは次々とハオレの商人と結婚し、その影響力は経済にもおよんでいた。ハオレは、王国そのものの未来さえ、自分たちに都合の良いほうに誘導しようとしていた。
ヴァン・リードの知っているハワイは、もっぱら船が寄港する首都のホノルルだった。
街並みは欧米のどこの都市にもある陳腐なものであり、ホノルルの小さな社交界は、ハワイの利権を牛耳ろうとする外国人たちが見栄の張り合いや足の引っ張り合い、くだらない噂話にばかり終始していてうんざりした。
この世の極楽浄土どころか、搾取とまやかしが横行する悲しい島なのかもしれなかった。
それでも、吹く風は爽やかだった。
海も空も青く、オレンジ色の夕陽も雨上がりの緑もせつないほどに美しかった。
ハワイを離れると、ことさらにそのことに気づかされる。
気がつくと、あの風を懐かしく思っている。