- 2022年01月16日更新
仙之助編 六の七
グローブホテルのバーは、寡黙な若い黒人のバーテンダーが取り仕切っていた。
すらりと背が高く、繊細な細い指でグラスを扱う姿が印象的だった。
豚屋火事の前には見なかった顔で、最近横浜にやって来たのかもしれない。ヴァン・リードは一度だけ、言葉を交わしたことがあったが、フランス語訛りの英語で、カリブ海のフランス植民地、マルティニーク島の出身だと話していた。
バーカウンターに置かれたグラスが空になっているのに気づいて、同じものでいいかと彼は小声で聞いた。自分からは何も話さないが、よく目配りをしている。
捕鯨船の船長のダニエルは、自分の勘定につけるよう指示をした。
「二杯目は俺におごらせてくれ」
ヴァン・リードは自分が奢るつもりにしていたのに、先を越された格好だった。
「到着早々、ジョンマンを知っている男に会えるとは。うれしいよ」
「運命の出会いに乾杯」
ヴァン・リードは少し大げさに言った。
言葉の裏には、仙之助の渡航を託す心づもりがあったのだが、それを切り出すのは、まだ少し早い。まずは信頼関係を築くことだ。
そんなヴァン・リードの心模様を知るよしもないダニエルだったが、ヴァン・リードの言葉を真面目に受け取って返した。
「全くそうだな。運命の出会いに乾杯」
バーボンの入ったクリスタルグラスを二つあわせると、チンと澄んだ音を立てた。
「横浜には着いたばかりなのか」
「ああ、到着したばかりだ。今夜が日本で過ごす最初の夜だ」
「じゃあ、日本の最初の夜に乾杯だな」
二人はもう一度グラスをあわせた。
「しばらく滞在するのか」
「せっかくやって来た憧れの国だからな。北の海で鯨と格闘する前に鋭気を養いたいと思っている」
「そうか。鋭気を養うのにぴったりの場所に案内したいところだが、あいにく火事で焼けてしまったからな」
「ヨシワラのことか」
「横浜のヨシワラだな」
「どうせ、江戸のヨシワラに俺たちは行けないんだろう。俺たちのヨシワラは港町のヨシワラだ」
港崎遊郭のことも江戸の吉原に喩えて「ヨシワラ」と呼ぶ異人は少なくなかった。外国人居留地の住人は十里(約40km)四方より先に行くには許可が必要だったから、江戸は簡単には行けない神秘の都だった。まして通りすがりの船乗りであれば、なおさらである。