- 2022年05月22日更新
仙之助編 八の一
クレマチス号がオホーツク海で仕留めた二頭目の鯨はホッキョククジラだった。
最初に仕留めたマッコウクジラよりひとまわり大きく、操舵手たちは命がけの格闘を繰り広げ、あやうく海に落ちそうになった者もいた。
解体するのにも骨が折れた。脂のたっぷりのった皮を剥ぎ、鉄鍋で煮込む作業も時間がかかったが、たくさんの鯨油が取れる大きな鯨を獲得して、船上は浮き立った。
仙之助は鯨油を煮溶かす匂いにだいぶ慣れた。脂まみれの重労働も捕鯨船で一人前の仕事ができるようになった喜びが勝っていた。
鯨油にする作業が一段落した頃、暦が八月になっていた。
夜の時間が少しずつ長くなる。晴れて太陽が照りつければ、気温は上がるが、日が陰れば一気に寒くなる。オホーツク海の短い夏が終わろうとしていた。
デッキの大掃除があった日の午後遅く、急に風が強まった。
氷粒のような雨を含んだ冷たい風だった。
波も急に高くなった。複雑な波が右に左に船体を翻弄する。
クレマチス号は、カムチャッカ半島の東海岸を航行していた。
補給のため立ち寄る予定だったペドロパブロフスク・カムチャッキーの港は、まだだいぶ南下しなければならない。江戸湾と同じく大きな湾の奥にある天然の良港なのだが、船長のダニエルはそこまで船を進めるのは危険と判断した。
めざしたのはペドロパブロフスク・カムチャスキーの北に突き出した小さな半島の根元にあるモロゾバヤ湾だった。以前、ダニエルはそこで風待ちをした経験があった。
操船をする乗組員を除いて、仙之助たちはキャビンに入るよう指示が出た。
冷たい海に落下したら、たちまちのうちに体温を奪われて死に至る。オホーツク海が南の海より危険なのは、変わりやすい天候だけでなく、その冷たい水なのだとダニエルは言った。
ギギギー、ギギギー。
不気味な風の音と共に船体のきしむ音がする。
振り子を揺らすように右に左に船体が揺れる。
ザッブーン、ザッブーン。
デッキに押し寄せる大波の砕ける音も聞こえる。
仙之助は、ユージン・ヴァン・リードから聞いた遭難の話を思い出していた。ハワイに到着できないまま、ここで命がつきるのだろうか。ヴァン・リードは南の海だったから座礁しても生還できたが、この北の海では助かる見込みはない。不安が波のように押し寄せる。
「仙太郎さん、守ってください」
咄嗟に祈ったのは神仏ではなく、亡き仙太郎に対してだった。
仙之助のあわせた両手を包み込むように掴んだ大きく分厚い手があった。ラニだった。
「ジョンセン、大丈夫だ」
次の瞬間、船体が大きく傾いた。