- 2022年12月25日更新
仙之助編 十の八
騒ぎを聞きつけた牧野富三郎が喧嘩の現場にやってきた。
「おい、何をやっている」
ブルブル震えながら出刃包丁を構えた中国人コックと、真っ赤な顔をして拳を振り上げた賭博好きの鉄ヤンは、まさに一触即発の状況だった。
「こんなところで喧嘩をして、怪我をしたところで何の得もないぞ。喧嘩をしたいなら、ハワイに上陸してからにしろ」
そう言って、興奮している鉄ヤンを押さえつけた。
「こいつら、俺たちを馬鹿にしてやがる」
「わかった、わかった。上陸したら、好きなだけ喧嘩すれば良い」
「タダじゃおかないからな。覚えていろよ」
中国人コックは、もともと喧嘩を売られた方だから、相手が収まれば納得して、おとなしく出刃包丁をしまい込んだ。日本語の意味はわからずとも、自分に悪態をついていることはわかるのだろう、鉄ヤンの顔をチラッと見上げて、一瞬不愉快そうな顔をして、意味のわからない言葉を吐き捨てるようにつぶやいた後、厨房に戻っていった。
一件落着してほっとした富三郎は、後ろから肩を叩かれて振り返った。
「 Good Job(よくやった)」
ユージン・ヴァン・リードの配慮で乗船した医師のデイビット・リーだった。乗船前の健康診断から始まり、嵐になって以降、不慣れな船旅で体調を崩す者たちの面倒をみていた。
富三郎はつたない英語で聞いた。
「 Today,How many sick(今日は、病気、何人いる)?」
「 Still many(まだ、だいぶ具合の悪い者はいる)」
リー医師は、富三郎にわかるように簡単な単語でゆっくり答えた。
「 Especially,Wakichi is bad(特に和吉がよくない)」
三〇代半ばの和吉は、若く血気盛んな移民たちの中では落ち着いた分別のある男で、富三郎は乗船時に世話人の役目を与えていた。だが、嵐で酷い船酔いになった後、食欲が戻らず衰弱する一方だった。
「 If he cannot eat, let him drink water(もし食べられないのなら、水を飲ませなさい)」
リー医師は、今一度、念を押すようにコップで水を飲む仕草をしながら富三郎に言った。
「 Wakichi,water,OK?」
「水を飲ませろということだな。OK,OK」
まもなくして、いつもより少し遅れて、昼食が用意された。
白飯と中国人コックの作る油臭い副菜をみな黙ってかき込んだ。
富三郎は、食事に集まった顔ぶれの人数を数えた。顔を出していない者が病気で伏せっている人数ということになる。その日も十数人がいない計算だった。
富三郎はふっと小さくため息をついた。