- 2024年01月14日更新
仙之助編 十五の一
山口仙之助を乗せた捕鯨船、クレマチス号が横浜に寄港したのは、西暦の一八六九年の晩秋、旧暦では明治二年の暮れ近くのことだった。
明治政府になってから、幕末の混乱期より入国審査が厳しくなっているのをダニエル船長は承知していたので、東京湾の入り口、三浦半島の観音崎沖に入った頃から、仙之助は船底の船室に留め置かれた。万が一のため、積み荷に見せかけるための麻袋を被って、仙之助は息を殺しながら、甲板に駆け上がっていきたいのを我慢していた。
十六歳で密航してから二年余り、実に二年ぶりの帰国だった。
入港後も港のざわめきを遠くに聞きながら、なおも船室で息を殺した。
ホノルルの時と同じように、目深に帽子を被って上陸したのは、夜遅くのことだった。
上陸直前、ダニエル船長は、船底の船室にやって来て、何も言わずに仙之助を抱きしめた。
「ジョンセン、私の息子……」
耳元で小さくささやいた。
「息子……」
「そうだ。お前のことは、私の息子のように思っている。この広い太平洋で、二度までも、偶然お前と巡り会い、同じ船に乗った」
「船長との出会いがなければ……、私の運命は開けませんでした」
「お前と会えてうれしかったぞ」
「私もうれしかったです。特に……、ホノルルでの再会は夢のようでした」
「そうだな。だが、さすがに、もう会うことはないだろう」
「はい……」
仙之助はしんみりとした表情でうなずいた。
心のどこかに、いつまでもクレマチス号で航海をしていたい気持ちがあった。だが、捕鯨船の乗組員が、自分の将来を賭けてやりたいこととは思えなかった。
「今度、海を渡るときは、堂々とお日様の当たる時間に入港できる身分で行け」
そう言われて、仙之助は思わず笑った。
「二度も密航者の面倒を見て下さり、ありがとうございました」
「ハハハハ、まったくだ。二年ぶりで、こんな真夜中に自分の家の方角がわかるか」
「キャビンボーイのマイクが一緒に行ってくれるそうです。ジンプーローならよく知っているそうです。馴染みの女がいるとかで」
「そうか、そうか。そうだったな。ジンプーローは有名だ」
「はい、おかげさまで」
仙之助の返答にひとしきり笑った後、ダニエル船長は真面目な表情で言った。
「幸運を祈る」
そして、抱擁を解き、ぽんと突き放すように背中を押した。
仙之助は、そのまま振り返ることなく、船室のドアを閉めた。