- 2024年04月07日更新
仙之助編 十五の十二
伊藤博文に直談判をしたいと考えた仙之助は、神風楼で下足番をしながら機会を伺っていた。トメは贔屓になった伊藤に仙之助が無粋な頼み事をすることは得策でないと引き留めたが、仙之助のはやる気持ちは抑えられなかった。
数日後の夜、いつもにもまして上機嫌の伊藤が神風楼にやってきた。
「いらっしゃいませ」
仙之助は、伊藤の履物を受け取った。
神風楼では、異人客のために舶来の上履きを用意していたが、伊藤もこれが気に入っていた。いつものようにトメが上履きを揃えて出すと、上機嫌に話し始めた。
「神風楼の上履きは本当に心地よいな。長旅のお供に一足失敬していきたいな」
伊藤は、そっと懐に入れる仕草をした。
「まあ、まあ、伊藤さまともあろう方が。そんなにお気に召されたのなら、お帰りにご用意いたしましょうか」
「まことか。それはうれしいな」
「お国の大事のために行かれる旅のご出発がお近いのですか」
「神風楼に来るのも今宵が旅立ち前の最後になる」
仙之助はトメの如才ないやりとりに履物を抱えたまま、傍らで控えていた。
「旅の準備は万端整っていらっしゃるのですね」
「そうだな。あとは神風楼の履物があれば、問題はないな」
「まあ、おっしゃいますこと。伊藤さまのお使いになる一足だけでよろしいのですか」
「私の従者にやるか。いいや、そんな贅沢をさせては身のためにならぬ」
「伊藤さまの従者になられるのは、それなりのご身分のお方なのでしょうね」
「知り合いに頼まれて預かっておる我が家の書生のような少年だ。神風楼を紹介してくれた高島さんと同じ姓でな。縁者でも何でもないのだが、浅からぬ縁を感じておる」
仙之助は、ついにたまりかねて口を開いた。
「もうひとり、従者はお入り用ではございませんが」
突然の申し出に伊藤は驚いて、仙之助の顔を凝視した。
「お前は……」
「大変失礼致しました。神風楼の当主の跡取りにございます。英語の素養はございます。捕鯨船のキャビンボーイになった経験もございます。お役に立てると存じます。」
一気呵成にそこまで言うと、仙之助は顔に血が上ってくるのを感じていた。
少し呆れたような表情のトメを見て、仙之助は思わず顔を伏せた。
しばらくの沈黙が流れた後、伊藤は真面目な顔をして言った。
「副使の従者は一人と決まっておる。すまぬな」
そのまま、何もなかったように伊藤はトメに話しかけた。
「おハルの待つ座敷に案内してくれ」