- 2024年05月12日更新
仙之助編 十六の五
神風楼の奥座敷で粂蔵と向かい合った仙之助は、土下座して言った。
「父上、一生のお願いがございます」
「仙之助、あらたまって、何事かね」
「メリケン……に行く船賃を工面して頂けないでしょうか」
「伊藤様の使節団は、今日出発したのだろう。従者にして頂けなかったのは残念なことだったが、諦めきれないのか」
「はい」
「メリケンに行って、何をするつもりだ。勉学がしたいのか。そうであれば、船賃だけでは済まないだろう」
「勉学の費用まで無心するつもりはございません。ただ……、異人相手に大きな商売をしたいと思っております」
「神風楼を捨てて、メリケンで商売をしたいのか」
粂蔵の表情が一瞬、険しくなった。仙之助は、慌てて言葉をつないだ。
「いえ、神風楼を捨てるなんて、滅相もない。私は……、メリケンで経験を積んで、こちらで新しい商売をしたいと思っております。それで神風楼をさらに盛り立てたいと考えております」
「新しい商売……、ふうむ。いったい何をするつもりだ」
「まだわかりません。それを見つけに行きたいのです。父上もご存じの通り、今は世の中が大きく変わろうとしております。徳川の世には未来永劫、このままであろうと信じていたことが、次々と変わっていくご時世です。思いもよらない、新しい商売があるはずです」
「富三郎から手紙が来ていたな。あいつはメリケンで何をしているのだ」
「桂庵(職業斡旋)でございます」
「新しい商売とも思えんな」
「仕事を斡旋する商売であれば、新しい商売のつてもあると存じます」
「なるほど。ちゃんと、横浜に帰ってくるのだな」
「もちろんです。必ず帰って参ります」
「よし、では、ひとつだけ条件がある」
仙之助は、ぐっと唾を飲み込んで、粂蔵の顔を見つめた。
「ならば……、トメと祝言を挙げてからいけ」
唐突なようでいて、どこかで予想していた言葉だった。彼女が養女として迎えられた時から、いつかは自分と娶せられるであろうこと、二人が跡継ぎとして期待されていることは、仙之助も自覚していた。
それでも、その事実から目をそらせてきた理由は、トメの女将としての力量に一目おきながら、配偶者となることに、どうにも違和感を覚えていたからだった。