山口由美
2024年06月16日更新

仙之助編 十六の十

祝言が終わると、出発は八日後に迫っていた。

捕鯨船に乗った時は、着の身着のままの旅立ちだったが、今回は外国人居留地の仕立屋に注文した洋服を用意して、せめてもの洋行らしい身なりを整えた。

今回は、捕鯨船での密航ではない。

そのことが、仙之助の気持ちを誇らしく、晴れがましいものにしていた。

だが、気がかりだったのは、旅支度は整ったのに、肝心の免状(旅券)がなかなか発給されないことだった。書類を整えて神奈川県の役所に申請しているのに、何の音沙汰もない。密航歴のある仙之助は、どうしても不安になる。ハワイにいた仙之助のことを誰かが密告し、該当する渡航書類がないことが発覚してしまったのではないか。

日を追うごとに仙之助の不安は増していった。

家族と別れを惜しむ気持ちの余裕もなく、思い悩むことが多くなった。

仙之助の心配をよそにトメは明るく、あっけらからんとしていた。
「大丈夫ですよ。岩倉様の使節団でさえ、全員の免状が整ったのは、出発の直前だったと伺っています。お役所もお忙しいのでしょう」
「そうならばいいが……
「何がそんなにご不安なのですか」
「いや、それは……
「密航されたことですか」
「そうだな」
「あら、やだ」

トメは、そう言うと、大きな声でからからと笑った。
「使節の副使でいらっしゃる伊藤様も密航者じゃないですか。ご存じでしょう?」
「それはそうだが」
「徳川の時代の冒険談を今さらお咎めがある訳ないですよ。仙之助さんは……、大胆なお方なようでいて、案外、心配性でいらっしゃるのですね」
「政府のお役人である伊藤様とは違うからな」
「違いませんよ。仙之助さんもメリケンで使節団に加わられるのでしょう」
「いや……
「仙之助さんならば……、大丈夫ですよ」

トメは、仙之助の顔をじっと見つめた。
「そんなお顔をなさらずに、しばしのお別れなのですから、楽しいお話をしましょうよ」

そう言われると、一時、心配は杞憂のようにも思うのだが、免状が発給されない日が続くと、いてもたってもいられなくなる。

仙之助は、毎日のように、役所に通いつめた。

そして、ついに出発日の二日前になってしまった。

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次回更新日 2024年6月23日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお