山口由美
2024年09月08日更新

仙之助編 十七の九

山間を進む鉄路の高度が上がるにつれ、気温が下がり、灰色の空から落ちてくる霙まじりの雪は、やがて本格的な降雪となった。

シエラネバダ山脈越えの列車

汽車は機関車を増結し、トンネルやスノーシェッド(雪崩よけ)をくぐり抜けるようにして最高地点のサミット駅に到着した。ここでラッセル車を連結して下りに転じる。闇夜を一晩疾走すると、翌朝はもう雪はなく、枯れ草の生えた平原が広がっていた。

サクラメントを出発して三日目の朝、ネヴァダ州を過ぎてユタ州に入った。車窓に巨大な湖が見え始めた。グレートソルトレーク(大塩湖)だった。

湖岸を走って、まもなくすると州都ソルトレイクシティが見えてきた。

このあたりは、内陸性の気候で冬の寒さが厳しい。岩倉使節団の一行が訪れた二月初旬は、厳冬期であり、気温はマイナス三十度まで下がることもあった。

おりしも大寒波に見舞われて、しんしんと雪が降り積もっていた。

宿舎となったのは、タウンゼントハウスという瀟洒な佇まいのホテルだった。大雪に震え上がった一行は、郊外の温泉を紹介され湯治に出かけて一息ついた。

ところが、ソルトレイクシティに戻ると、ロッキー山脈の大雪で出発の見込みがないと知らされる。旧暦では明治四年の年の瀬も押し迫った十二月二十八日のことだった。

ソルトレイクシティは、モルモン教、すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会の開拓者が築いた宗教都市だった。キリスト教の一派でありながら独自の教義を持つモルモン教徒は異端として迫害され、この地に逃れてきたという。市内には壮大な聖堂がそびえていた。

使節団は明治五年の年明けを地元の役人たちと宿舎のタウンゼントハウスで祝った。

足止めは十八日間におよんだ。復旧した鉄道に再び乗り込み、旅が再開したのは、二月二十二日のことだった。ロッキー山脈を超えるのに三日間を要し、ミズーリ湖畔のオマハに到着した。大陸横断鉄道は、ここでユニオン・パシフィック鉄道の管轄になる。

オマハを過ぎると、荒野や険しい山越えとは風景が一変した。ミズーリ州からイリノイ州に入ると、車窓に広がるのはトウモロコシ畑や果樹園が続く穀倉地帯になった。

二月二十六日の午後、使節団はシカゴに到着した。

当時のシカゴは、前年十月の大火からの復興途上にあった。見るべきものはたくさんあったが、途中の足止めで予定がだいぶ遅れていたため、二日間の慌ただしい滞在だった。

ニュージャージー州の名門、ラトガーズ大学に留学していた岩倉具視の子息たち、具定と具経が面会のため、出迎えにきていた。その夜、息子たちは、旧態依然とした父親の装束は文明開化をめざす日本の大使にふさわしくないと、強く非難した。

振り袖姿の女子留学生たちと共にエキゾティックな装束を賞賛されることに気を良くしていた岩倉具視だったが、その日のうちに断髪して服装もあらためた。

二十七日の夜、一行は再び汽車に乗り込んだ。ワシントンまでは、一昼夜の行程だった。

西海岸の出発からおよそ一ヶ月の長旅を経て、一八七二年二月二十九日、使節団は、ついにアメリカ合衆国の首都ワシントンに到着したのだった。

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次回更新日 2024年9月15日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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