山口由美
2025年06月22日更新

仙之助編 二十一の一

カウボーイのジョーイはテキサスに向けて一刻も早く出発したくてうずうずしていた。

サワードゥのジムがブルズ・ヘッド・サルーンの切り盛りを任されていることが出発のさまたげだったが、主人のベン・トンプソンのやる気のなさに好機を感じていた。牛の季節が来たというのに、テキサス牛の出入りが禁止されたアビリーンには牛もカウボーイも姿を見せず、鉄道の延伸によってウィチタとダッジシティが新たな「牛の町」になると巷の噂になっていたのだから当然のことだった。

このところ、ベン・トンプソンは頻繁にブルズ・ヘッド・サルーンにやって来ては、カウンターでウイスキーをあおって愚痴をこぼす。
「フィルの事件で、アビリーンはケチがついちまったな」

いつも話題は、ブルズ・ヘッド・サルーンを開業したフィル・コーが射殺された事件にいきつく。事件のきっかけは、フィル・コーがサルーンの壁にペニスを勃起させた雄牛の絵を描いて住民を怒らせたことだったという。そこにやってきたのがアビリーンの保安官をしていたワイルド・ビル・ヒコックだった。

血気盛んなカウボーイたちの乱闘騒ぎが絶えない「牛の町」では、町の安全を維持するため、腕利きのガンマンを保安官として雇っていた。

西部開拓時代には、数多の保安官が活躍したが、アビリーンの二代目保安官であったワイルド・ヒル・ヒコックは、後世に名を残す有名な保安官のひとりだった。早撃ちの名手として知られ、彼が睨みをきかすアビリーンに無法者は近寄らなくなった。

早撃ちのビル

ワイルド・ビルは、卑猥な雄牛の絵を直ちに消さなければサルーンを焼き払うと忠告して、絵を消すためのペンキ職人を連れてきた。フィルは自分の店に勝手な振る舞いをするワイルド・ビルに激怒した。

店の外で取っ組み合いの喧嘩になった後、立ち去ろうとしたワイルド・ビルの背中に向かってフィルが発砲した。だが、二発とも弾は外れた。

その瞬間、それまで銃を持ち出すことのなかったワイルド・ビルが本気になった。そうなったら、早撃ちの名手に適う訳はなかった。フィルは撃たれて重傷を負い、数日後に息絶えたのだった。
「早撃ちのワイルド・ビルにかなう訳はないのに、馬鹿な奴さ」

ベンはいつもそう言ってため息をつく。
「そもそもあの事件が、牛のロングドライブで儲けている連中への怒りを焚きつけることになって、テキサス牛の立ち入り禁止にまでなっちまった」

そう言って、ベンが見上げた壁には、よく見ると雄牛らしき絵の残骸があった。問題の部分には、ワイルド・ビルの呼んだ職人が塗ったペンキ跡があって、何が描いてあるのかよくわからないが、それがアビリーンの衰退を招いた元凶らしかった。
「畜生、こいつのせいだ」

ベンはいつも最後には、雄牛の絵の残骸が残った壁に向かって悪態をつく。

次回更新日 2025年6月29日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお