

- 2025年10月19日更新
仙之助編 二十二の五
牛を売ってくれと声をかけた男に背を向けた富三郎の後ろで仙之助が口を開いた。
「いくらで買い取るつもりだ」
富三郎は驚いて、仙之助の顔を見た。男は、値踏みするように牛の体を撫でて、しばらく考え込むと答えた。
「一頭五〇ドルでどうだ」
テキサスでの価格は一頭四ドルが相場だったから、十倍以上の価格だった。当時、東海岸の市場でも牛の価格は、おおむねテキサスの十倍で売却できた。仙之助は、餞別もかねて、相場よりさらに安い価格で買い取ってきたから相当の儲けになる。
富三郎は慌てた様子で言った。
「仙之助さん、何を言い出すんですか。牛を売るなんて」
「もちろん全部は売らないさ。十頭を連れ帰るのは容易なことじゃない。船賃もいくらかかるかわからない。確実に日本に連れていくためには、少し頭数を減らしたほうが得策じゃないかと考えたんだ」
「なるほど」
しばらく二人のなりゆきを見守っていた男が口を開いた。
「どうだい牛を売る決心はついたかい?」
「うーん、そうだな。全部は売れない」
「どういうことだ?」
「牛を連れて太平洋を渡る決心は揺るがないからだ」
「何頭ならいいのかい。半分の五頭か?」
「いや……」
仙之助は、しばらく考え込んだ。
「富三郎、どう思う?」
「そんな大事な決断、私にはできませんよ。仙之助さんが決めて下さい」
さらにしばらくの間をおいて、仙之助はおもむろに答えた。
「三頭なら売っていい」
「おいおい、たったの三頭かい。けちくさいなあ。七頭も船に乗せるって言うのか」
「そうだ」
「しょうがねえなあ。でもまあ、テキサス産の上等な牛だからな。三頭でもいいだろう。貰うことにするよ」
「一頭五〇ドルですね」
「けっ、覚えていやがる。十頭ならと思って値を弾んだが、三頭じゃなあ」
「それはないですよ。一頭五〇ドルと聞いて売ることにしたんだから」
「わかったよ」
仙之助はほっとした笑顔を浮かべた。
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