- 2019年07月14日更新
- 画 しゅんしゅん
二の三
アーチ型の墓標は、周囲と比較してもひときわ大きかった。
墓碑銘を縁取るように、百合の花の彫刻が施されている。
手にした花束に視線を落とし、私は不思議な符合を感じていた。白い百合は墓地によく供えられる花だけれど、それにしても、何か見えないものに誘われている気がした。
ジョン・エドワード・コーリアは、ニューヨークに生まれ、横浜に没した。計算すると、五二歳で亡くなったことになる。
一八九一(明治二四)年といえば、富士屋ホテルの本館「フェニックスハウス」が竣工した年になる。
墓石の裏にまわると、山口梅子の建立と日本語で刻まれていた。
虎造の母の名前だった。
「門の近くにある墓は、古いものなのでしょうか」
祐司が管理人に問いかける。
「山手の外国人墓地がいっぱいになって、根岸にも外国人墓地が出来たのが一九〇二年と聞いていますから、この方が亡くなられた頃には、もうたくさん墓地はあったでしょう。たまたま、いい場所を買い取られたのではないですか」
「外国人墓地は、ここだけじゃないんですね」
「中国人だけの墓地もありますし、戦後に出来た墓地もあります。幕末のペリー来航の時、転落死した水兵を埋葬するために、海の見える墓地を要求したのが外国人墓地ができたきっかけだそうですが、最初の墓があったのも違うところでした」
「そうですか」
「最初の墓は、日本人の墓もあるお寺だったそうです」
「どちらのお寺ですか」
ほんの相づちのつもりの質問に意外な答えが返ってきた。
「山手の増徳院という寺です」
「えっ?今、なんて」
「増徳院です」
増徳院は、祐司の実家、會田家の菩提寺だった。
横浜で貿易商を営んでいた會田家の四男が祐司の父親にあたる。商売は長男が継いだが、その縁で祐司は生まれも横浜なのだった。
「増徳院が最初の外国人墓地だったのですか」
「そうですよ。今の場所に外国人墓地が移ったのは、関東大震災で焼けた後で、それまでは、元町の、新しく出来た百貨店のようなところがあるでしょう。元町プラザと言ったかな。あのあたりに墓地があったそうです」