- 2019年12月29日更新
- 画 しゅんしゅん
三の四
それは、何とも偉容な光景の墓地だった。
敷地の真ん中あたりに幾つもの石灯籠が、寺の参道のように整然と並んでいる。しかも、身の丈を越えるほどの大きさだ。まるで権力者の墓のようだった。横浜で神風楼といえば、ある時代、それだけの力を誇ったという証なのだろうか。石灯籠の後ろ、石段を数段上がった少し高いところに墓石が並んでいた。
「お花一対では、全然足りなかったですね」
「なあに、かまわんですよ。仙之助が立てた粂蔵の墓に供えてやってください」
虎造は、ひときわ大きな墓石の前に私たちを誘った。
墓石には「俗名 山口粂蔵」とある。
「粂蔵……」
「仙之助も山口家の養子でしたからな。養父になります。漢方医の五男に生まれて、頭の良さを見込まれたんでしょう」
「漢方医の息子だった話は、富士屋ホテルの八十年史にも出てきます。神風楼とはひと言も書いてありませんが、養父粂蔵の援助があったと、そんな話は読んだ気がします」
私たちは、虎造と出会ってから、祖父堅吉がまとめた古い社史のページをめくる機会が増えていた。堅吉は、少しでも暇ができると、日比谷の図書館まで出向いてコツコツ調べ物をしていた。生真面目な性格そのままに事実が羅列する本は、丹念に読むと、ふいに不可思議な物語が立ち上がることがあった。創業者に関する記述はその典型だった。
墓石の後ろには、山口仙之助ともう一人の名前が刻まれてある。
「山口綱吉とは、どなたですか」
「粂蔵の弟です。もともと粂蔵が始めた遊郭は、伊勢楼と言いましてな。神風楼と名乗ったのは、綱吉が2軒目の遊郭を開いた時でした。維新の数年前のことですな」
「伊勢楼ですか」
「神風楼はそこからとった名前ですよ」
「というと?」
「日本書紀に神 風の伊勢の国の常世の波の、という有名なくだりがあるじゃないですか。神風は伊勢の枕詞です」
「伊勢の神風ですか。伊勢の出身だったんですか」
「いいや、伊勢じゃないですよ。栃木の石橋です」
「栃木?」
「幕末の動乱に乗じて一旗揚げようとしたんでしょうな。遊郭の命名は、さしずめその意気込みだったんでしょう」