- 2022年05月15日更新
仙之助編 七の十二
クレマチス号が沖合を航行した火山島は、ロシア語でチルポイ島と呼ばれていた。
北海道からカムチャッカ半島に続く千島列島の中程に位置する。ロシア帝国と松前藩の領有が交錯した島のひとつだったが、一八五五(安政元)年の日露親和条約で、択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。チルポイ島は得撫島の隣にある。
もっとも島々の本来の住人はアイヌ民族である。
チルポイの語源はアイヌ語の「チリ・オ・イ(小鳥がたくさんいる島)」に由来する。
切り立った岩場には無数の白い海鳥が見えた。
キャーオ、キャーオ、キャーオ。キャーオ。
大きな鳴き声と共に翼を広げて頭上を旋回する。
仙之助はあっけにとられたように青い空を仰いだ。これほどたくさんの鳥を見るのは初めてのことだった。
チルポイは南島と北島の二つがあって、煙を上げているのは北島の火山だった。
どちらも黒い火山岩からなっていた。船長のダニエルがロシア語でもアイヌ語でもなく「 Black Brothers (黒い兄弟)」と英語で呼ぶのはそのためである。
黒いゴツゴツした火山岩は海岸線まで迫り、白い煙は山頂だけでなく、海に近い岩場からも立ち上っていた。
何かが腐ったような匂いがする。仙之助は初めて嗅ぐものだった。少し慣れれば、鯨の脂を鉄鍋で煮る時の悪臭ほど、嫌なものではない。
「この匂いは何ですか」
双眼鏡で島を見つめる船長のダニエルに聞いた。
「硫黄(Sulfur )だ」
Volcano (火山)と同じく、仙之助は聞いたことのない英語だった。
「これが火の山なのか……ヒ、ノ、ヤマ」
仙之助は日本語でつぶやいた。
お前の国にもあるだろうと言われたが、仙之助の知る日本とは、生まれ故郷の大曽根村と江戸の浅草と横浜だけであり、火を噴く山など見たことはなかった。
ハワイに行くために乗った捕鯨船で、こんな冒険をするとは予想もしなかった。鯨の解体作業には音を上げそうになったが、見たこともない世界を目の当たりにする興奮を思えば苦労でも何でもない。
翌朝、風はさらに強くなった。七月とは思えない寒さだった。
仙之助は、横浜を出航する時にダニエルからもらった白い頭巾のついた上着を着た。ラニも同じように頭巾のついた上着を着込んでいる。二人で前日の祝宴で散らかった甲板の後片付けを始めた。ジョーイは、銛の手入れに余念がない。
マストには見張り番が立っている。
独立記念日は終わり、鯨を追い求める日常が再び始まった。