山口由美
2022年07月17日更新

仙之助編 八の九

吹く風が変わったのは、その夜遅くのことだった。

雨を含んだ湿った風は、まもなく荒れ狂う嵐になった。

ダニエル船長の予言通りだった。ペドロパブロフスク・カムチャスキーを出発してから順調な航海が続いていたが、太平洋はたやすい海ではない。

夜明け前にマストの帆が畳まれた。嵐に向かう準備だった。

朝を迎えて、風も雨もますます強くなった。

カムチャッカ半島沖で嵐に遭った時と同じように、操船をする乗組員以外は船室に入ってハッチを閉めるよう、船長の指示が下った。

ギギギー、ギギギー。

再び船体がきしみ始めた。体を保っていられないほど、船体が右に左に揺さぶられる。

だが、仙之助はもう恐怖は感じなかった。

凍える北の海ではないということが、気持ちを強くしていた。太平洋を南下する航海で、船乗りとしてひとまわり成長したこともあったのだろう。

ダニエル船長の海図を読む判断が正しければ、めざすハワイはもう遠くない。

ザッブーン、ザッブーン。

ザッブーン、ザッブーン。

大波が船に叩きつけられる音が響く。

ギギギー、ギギギー。

船体がきしむ不気味な音は一昼夜続いた。

嵐の一日が過ぎ、夜明け間近になってようやく船体のきしむ音が止み、波の音が止んだ。まもなくして、船体の激しい揺れも収まった。
「もう大丈夫だ。甲板に出てもいいぞ」

ダニエル船長の声が響いた。

甲板では、慌ただしくマストに帆を張る準備が進められていた。

風はまだ強かったが、その風に乗って雲がどんどん動いていく。

雲の合間から光が差してきた。まばゆい金色の光が雨に濡れた甲板に反射する。

じっと双眼鏡を覗いていたダニエル船長が、水平線の彼方を指さした。
「島影が見えたぞ」

仙之助は、思わず駆け寄って聞いた。
「ハワイですか」
「カウアイだ」
「えっ?」
「サンドウィッチ諸島のカウアイ島。そう、ハワイの島のひとつだ」

豆粒ほどの島影が少しずつ大きくなっていく。朝陽が一筋の光となって島に注ぎ、鮮やかな緑色が浮かび上がった。切り立った山並みを覆う緑は見たことのない美しさだった。

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次回更新日 2022年7月24日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお