- 2023年01月08日更新
仙之助編 十の九
中国人コックとの騒動の翌日には、再び隠れ煙草を吸っている者が二人見つかった。
最初に発覚したボボ長の賭博仲間だった。彼らも同じく手錠をはめられた。煙草の火の不始末は船火事に直結する。度重なる不祥事にレーガン船長は激怒した。
ときおり雨が降ることはあったが、波の静かな日が続いていた。だが、海況の穏やかさとは裏腹に連日、何か騒動がおきる。単調な毎日に移民たちの鬱憤がたまっていたのだろう。
嵐の後、チョンマゲを切り落とし神仏に祈った日の殊勝な気持ちはすっかり遠のいて、日課の米搗きにも精が出なくなっていた。
佐久間米松だけは毎日、律儀に日記をつけていた。富三郎はその記述で、航海の残り日数を勘定した。ホノルルまではおよそ三十日余りと聞かされていた。
横浜を出港して十七日目となった日、ときおり上空を海鳥が飛ぶだけだった大海原に見慣れぬ流線型の生き物が姿をあらわした。
「あれは何だ」
「クジラか」
甲板に集まってひとしきり大騒ぎになった。
レーガン船長は双眼鏡を手にして、その生き物の姿を確かめると言った。
「 Dolphin(イルカ)」
リー医師も甲板に来て、盛んにその単語を連呼した。
「 Oh,Dolphin 」
だが、船上の日本人たちは誰もがイルカを見たことがなかった。ジョン万次郎のように漁師であれば、「 Dolphin 」の何たるかを理解したに違いない。だが、江戸や横浜の都市生活者ばかりの彼らには、それがわかる者は誰もいなかった。
富三郎は多少の英語がわかると思われていたから、みなは盛んに聞いた。
「異人は何だと言っていなさるのかね」
「さあて、クジラでないことはわかるんだが」
山口仙之助の手紙からクジラを英語で「 Whale 」と呼ぶことは学んでいた。船長たちが口にしている単語がそれでないことはわかる。
「クジラほど大きくはないな」
「魚ではないよな」
「そりゃあ、そうだ。あんなでかい魚はいねえさ」
「海の獣だな」
「あいつら、この船と競争してやがる」
サイオト号の周囲を何頭ものイルカが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら併走していた。騒動ばかりおこしていた荒くれ男たちが子供のような笑顔になった。
佐久間米松は、日記に「船より一丁許先に獣が沢山あらわれた」と書き付けた。
イルカたちは翌日もあらわれて、サイオト号と併走した。