- 2023年07月23日更新
仙之助編 十三の一
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
早朝のヌウアヌ通りに男たちの足音が響き渡ったのは、一八六八年十二月初旬のことだった。十一月のサンクスギビングが終わって、クリスマスの準備を始める頃のことだ。
熱帯のホノルルにはクリスマスツリーにするモミの木もないが、それでも商店街ではせめてもの装飾を施してクリスマスらしい気分を演出する。商船の入港が多くなり、お祝いの食卓に欠かせない葡萄酒やシャンパン、砂糖漬けの果物などが入荷した知らせが新聞広告を賑わせる季節であるのは横浜と同じだった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
軍隊の行進にも似た足音にホノルルの住人たちは、何事かと、鎧戸の中から様子をうかがった。まもなく、足音は、ある建物の前でピタリと止まった。
日除けの麦わら帽子を被り、汚れたシャツを身につけた、見るからに農園労働者といった風貌の背の低い男たちが十人ほど、鬼のような形相で立っていた。
コウラウ耕地のワイルダー・プランテーションに雇用された日本人移民たちだった。
足音に気づいた牧野富三郎が慌てて外に出てきた。
「おまえたち……、夜通し歩いてきたのか」
その質問には答えずに、先頭に立った男が答えた。
「モキチとヒョウベイが死んだ」
告げられたのは、コウラウ耕地に配属されたなかで年かさの二人の名前だった。
「えっ……、何だって」
富三郎の問いかけに男は罵声を浴びせるように言った。
「あいつら、お陀仏になっちまったんだよ」
男たちの突き刺すような視線に富三郎は言葉を失った。
サトウキビを収穫する仕事は過酷だった。陽の長い季節は早朝から夕暮れまで十二時間、夜明けが遅くなり、ようやく始業が一時間遅くなったが、それでも十時間は働きづめで、昼食の休憩も三〇分しか許されなかった。
もっとも、彼らが不当に過酷な待遇だったのでもなく、当時のサトウキビプランテーションの労働条件はみな同じようなものであり、明治中期以降の日本人移民も同じ待遇で働かされた。だが、後の移民たちの大半が農民だったのに対し、横浜で集められた元年者のほとんどが都市生活者で、畑仕事に不慣れだったことも、早々に不満が爆発した理由だった。
一日四ドルという給与は契約通りだったが、提供される食事が充分でなく、しかもコックが中国人であったため、脂っこい味付けが日本人の口にあわなかった。さらに彼らを憤らせたのが、横浜を出航する時に支給された揃いのお仕着せの代金を給料から差し引かれたことだった。ハワイの物価の高さも彼らには想定外のものだった。