- 2024年07月14日更新
仙之助編 十七の二
一八七二年一月十五日の朝、牧野富三郎は、港の方角から聞こえてくる礼砲の音で目を覚ました。彼が間借りしていた小さな部屋は、サクラメント通りの外れにあった。
「小広州(Little Cantong)」「小中国(Little China)」などと呼ばれた、いわゆるチャイナタウンの一角である。
当時のサンフランシスコには、日本人の在住者はまだほとんどいなかった。
一八六九年に会津から入植した若松コロニーの移民たちは、エルドラド郡のゴールドヒルに入植していたし、富三郎と共に渡米した者たちも、サンフランシスコから離れた場所に仕事を得て散らばっていた。
中国人の進出は、日本人より早かった。一八四九年にゴールドラッシュが始まると同時に、彼らはカリフォルニアに押し寄せた。一攫千金を夢見た人々は直ちに金鉱に向かったが、当時から金鉱で働く同胞に物資を供給する商店がサンフランシスコにはあった。三年後の一八五二年には、すでに約三千人の中国人がサンフランシスコに在住していたという。当時の総人口が約三万六千人であるから、彼らの勢力がどれだけ大きかったかわかる。
ゴールドラッシュが終焉すると、次は大陸横断鉄道の労働力となった。
一八六三年に着工した当初は、主にアイルランド人やメキシコ人が雇用されたが、難工事による重労働から脱落する者が多かった。その穴を埋めたのが中国人労働者だったのだ。
富三郎は、日本人移民の仕事の仲介を生業としていたが、ハワイから渡航した同胞の数は少なく、仕事は限られていた。新たな商売を立ち上げることを模索していたが、チャンスが掴めないまま、中国人の営む商店で雑用を引き受けて糊口をしのぐ日々だった。
夢と希望を抱いて渡航したアメリカ本土だったが、移民総代としてそれなりの地位にあったハワイにいた時と比べると、何の後ろ盾もない生活は厳しかった。
そのなかで、唯一の望みとしていたのが、仙之助の到着だった。
いったん帰国した仙之助が、再び渡航するのは容易ではないことはわかっている。それでも、自分の手紙を読んで、彼が奮起するに違いないと信じていた。
仙之助と一緒であれば、何か大きなことが出来そうな予感がしていた。
だが、サンフランシスコに着いてから神風楼に出した手紙に、まだ返事はなかった。
立て続けに響く礼砲に導かれるように、富三郎は、港の桟橋を目指した。
何度となく港で見かけた見覚えのある蒸気船が近づいてくるのが見えた。横浜からの定期航路の郵便汽船に違いない。
いつもと違うのは、桟橋に大勢の人々が集まっていることだった。港の周辺に普段たむろしているような労働者ではない。正装の紳士淑女がそこにはいた。
次の瞬間、富三郎の目に飛び込んできたのは、マストに翻る日の丸だった。
岩倉具視使節団のことなど、富三郎は知るよしもない。
だが、正装の紳士淑女が、日の丸を掲げた蒸気船を出迎えているのは確かだった。
富三郎は、その様子を遠くから眺めながら、胸がざわめくのを感じていた。