山口由美
2024年08月25日更新

仙之助編 十七の七

岩倉具節団の一行は、一八七二年一月十五日の到着後、三十一日までの十七日間をサンフランシスコとその周辺で過ごした。

サンフランシスコは湾を挟んで、対岸にオークランド村、ベルモンド村、サンノゼ村といった地域が点在し、産業が発展していた。滞在が長くなった理由のひとつとして、これらの地域を拠点とする富豪の招待が相次いだこともあった。

そのひとつであるオークランドが、一八六九年に開通したばかりの大陸横断鉄道の始点だった。当初の始点は、少し内陸にあるサクラメントだったが、同年、湾に面して港があるオークランドまで路線が延長されたのだった。

一八七二年一月三十一日の朝早く、サンフランシスコのグランドホテルを出発した一行は、蒸気船でオークランドに向かった。

その前夜、牧野富三郎は、グランドホテルを訪ねて、山口林之助と、市内案内をして顔見知りになった二人、同じく従者だという佐々木兵三と坂井秀之丞と面会し、別れを惜しんだ。ウッドワーズ・ガーデンで親しくなってから何度となく彼らと話す機会があり、すっかり意気投合していた。

富三郎から見れば、政府の使節団の一員である彼らは、雲の上の存在であり、当初は引け目を感じていた。一方、異国が初めての団員たちにとっては、異国に暮らす富三郎は、畏敬の存在であった。彼らに共通していたのは、異国に対する強い興味と憧れがあって海を渡った者たちであることだった。それがお互いの気持ちを共鳴させていた。

富三郎は、別れ際、使節団の日程を聞き出すことも忘れなかった。

従者という立場は、末端の団員ではあるが、使節に直属の立場であり、留学生たちよりも事務方の情報には詳しかった。とはいえ、想定外にサンフランシスコに長く滞在したように、使節団の日程は詳しく決まっていなかった。首都のワシントンは、重要な目的地のひとつだから、条約改正に関わる交渉などで長く滞在するかもしれないとのことだった。

近いうちに仙之助がサンフランシスコに到着したとして、それから使節団を追いかけても、彼らと途中の都市で会える確率は限りなく低いだろう。東海岸のワシントンまで行ったとしても、彼らと再会できる保証はなかった。

大陸横断鉄道の旅には、随行してきた駐日アメリカ公使のデ・ロングと夫人のほか、アメリカ号で到着したメンバーのほとんどが加わった。

アメリカの鉄道開発は東海岸から始まった。東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハまで到達したのが一八五九年。西部開拓が進むなか、西海岸への鉄道の延伸は、アメリカ合衆国の行く末を左右する大きな課題だった。一八六二年にエイブラハム・リンカーンが制定した太平洋鉄道法は、連邦政府の支援の下で大陸横断を促進するもので、南北戦争で国の分離が懸念されたこの時代、広大な合衆国の統合を維持する側面もあった。

西海岸を拠点とするセントラル・パシフィック鉄道は、東海岸のユニオン・パシフィック鉄道とつながって大陸横断鉄道となったのである。

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次回更新日 2024年9月1日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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