- 2024年10月20日更新
仙之助編 十八の三
伊藤博文と森有礼は、緊張した面持ちでフィッシュ国務長官との初めての折衝に臨んだ。親子以上に年の離れた極東の小国の若者を国務長官は、丁重に笑顔で迎え入れた。縮れ毛の顎髭をたくわえた温厚な紳士だった。
「先日は皆さま方をホワイトハウスにお迎えできて光栄でした。威厳ある服装に大統領もいたく感服しておられました」
「お褒めにあずかり光栄に存じます」
「さて、交渉に入る前に、あらためて伺うまでもないことではありますが、天皇の委任状はお持ちでしょうな」
伊藤の表情が変わったのを森は心配そうに見つめていた。
「いや、私どもは、天皇から委任された特命全権大使の使節団です。委任状など、なくとも我が国を代表する立場にあります。交渉に何ら問題はございません」
「それは困りましたな。交渉は国家間の重要な決めごとです。委任状がなければ、新しい条約の調印ができないではありませんか」
アメリカ側は、この時、翌年の大統領選挙を控え、他国に先んじて日本と改正条約を結ぶことで、選挙に有利な得点としたい目論見があった。
伊藤と森は顔を見合わせた。日本側にとっては、想定しない展開であった。
「改正条約の……調印ですか」
「貴国もそれをお望みでしょう」
フィッシュ国務長官は、温厚な表情を崩さずに、しかし毅然と、委任状無しの交渉は一切受け付けてくれなかった。一方で、条約改正の千載一遇の機会とも言えた。このまま、委任状がないからと引き下がるのは惜しい。
宿舎に戻った伊藤は、ことの顛末を正使副使の面々に告げた。条約改正を何としてでも成し遂げたいという伊藤の意見は、国内であったなら退けられていたかもしれない。しかし、使節団の一行には、グラント大統領との華々しい謁見の余韻が残っていた。しばし重い沈黙が流れた後、岩倉具視が口を開いた。
「委任状を、取りに帰るしかないだろう」
「誰か書記官を派遣するか、いや……」
伊藤は、対峙する意見も多い留守政府に委任状を出させるのが簡単なことではないことに気がついて、言葉がつなげなくなった。
「仕方あるまい、私が、参ろう」
伊藤に続いて、木戸孝允も声をあげた。
こうして前代未聞の副使二名の緊急帰国が決定になった。
一度の航海であっても水杯を交わすような時代のことである。一度帰国して再び太平洋を渡ることの途方もなさは想像を絶した。それでも伊藤は、千載一遇の機会を生かすには他に方法はないと覚悟を決めたのだった。