

- 2025年03月23日更新
仙之助編 十九の十二
仙之助と富三郎は、その日の夜遅く、伊藤博文の居室のドアをノックした。
「何の用事だ」
伊藤の声で英語の応答があった。仙之助が日本語で答えた。
「夜遅くに申し訳ありません。仙之助です」
しばらくの間があって、西洋式のガウンを着た伊藤がドアを開けた。
「お前たちか」
途端に伊藤の表情がやわらぎ、仙之助はほっとした。
二人を居室に招き入れると同時に伊藤が言った。
「気持ちは固まったのか」
「はい、サンフランシスコにはいかず、牛を追いかけることに致しました」
「ハハハハ、そうか、そうか。それはいい」
伊藤の高笑いが部屋に響いた。次の瞬間、真顔になって言った。
「勇気ある同胞がいることを誇りに思うぞ」
「万次郎殿のように首尾良くいかないでしょうが……」
「おいおい、今から弱気になってどうする。我々がとんぼ返りで帰国するのは、委任状を持参して条約改正交渉の大仕事に立ち向かうためだ。弱気になったら、太平洋のたびかさなる往復などできはしない」
そう言うと、伊藤は居室の奥から金貨の入った革袋を持ってきた。
想像上に高額な報酬に仙之助は目を丸くした。
「金はあるにこしたことはないだろう」
使節団の費用の一部なのだろうか。富三郎と顔を見合わせた。
「なあに、遠慮することはない。今頃、ほかの従者の連中はワシントンでもっと金を使っているのだろうからな。お前を従者にしなかったこと、後悔しているぞ」
「ありがとうございます。一緒に旅が出来て光栄でした」
「こちらこそ、楽しかったぞ。お前たちも明日出発するのか」
「はい、テキサスに向かいます」
「牛で一攫千金を当てたら何をする?」
「今は牛のことで頭がいっぱいですが」
「先のことも考えておけよ。開国したばかりの我が国が西洋列強と肩を並べていくには、政治の努力だけでは充分ではない。お前たちのような者の力こそ必要なのだから」
「お言葉を胸に刻んでまいります」
伊藤は最後に西洋式の握手を求めてきた。
「達者でいけよ」
「伊藤殿も道中、どうぞご無事で」
「ハハハハ、テキサスより日本はもっと遠いからな」
と伊藤は再び高笑いした。