山口由美
2025年03月30日更新

仙之助編 二十の一

十七世紀、スペイン領メキシコに入植したスペイン人たちは、耕作に向かなかった新大陸で、牛を飼育することに成功した。気候が温暖で牛の放牧が容易だったからだ。最適だったのがメキシコ北部であり、後のアメリカ南西部、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州が含まれていた。特にテキサスでは、十八世紀になると、多くの牛が繁殖するようになり、十九世紀に「牛王国」と呼ばれるようになる基礎が築かれた。

テキサスがアメリカ合衆国の新しい州として併合されたのは一八四五年のことである。牛を求めてさらなる入植者がテキサスにやってきた。

牛の陸上輸送が、牛のロングドライブとして、ゴールドラッシュに匹敵する一攫千金の手段になった背景には、アメリカ大陸における鉄道網の整備があった。

牛を鉄道で運ぶという画期的な方法を考えついたのは、トーマス・キャンディ・ポンディングというイリノイに入植した若いイギリス系の農夫だった。入植前から牛の陸上輸送に経験のあった彼は、当初、イリノイから運んだ牛をウィスコンシンの入植者たちに売っていた。しかし、彼らが最初から牛を連れて入植するようになると、ウィスコンシンでの商売は下火になった。そこでポンディングは、たくさんの牛がいるテキサスに行くことを思いつく。一八五三年のことだった。

テキサスの牛をイリノイに運ぶのは、隣接する州であるイリノイからウィスコンシンに牛を運ぶのとは訳が違った。テキサスからネイティブアメリカンの保護領を通り、アーカンソーを経てミズーリ州のセントルイスに至る。緊張と困難を伴う旅だった。

セントルイスから牛を連れてミシシッピ川を渡り、イリノイに到着したポンディングは、ここで冬を過ごし、大部分の牛を売りさばくと、翌年の春、手元に残していた一五〇頭のとりわけよく肥えた牛をニューヨークに連れていくことを決心する。

牛を鉄道に乗せることを思いついたのは、インディアナ州のマンシーという町の鉄道駅に到着した時のことだ。彼の脳裏に何かひらめくものがあったのだろう。

当時の鉄道には、家畜輸送用の貨車はなかったし、一般の貨車に牛を乗せるのは大変な作業だった。テキサス牛の特徴である長いツノがとりわけ厄介だった。

スペイン人が入植時に持ち込んだのがテキサスロングホーンと呼ばれるこの牛だった。環境に適合した牛は一部が野生化し、アメリカの在来種であるバイソンを押しのけて繁殖した。テキサスに行けば牛がいくらでもいるとされた、ロングドライブブームの背景にテキサスロングホーンの大繁殖があったのだ。

テキサスロングホーン

ポンディングは、途中何回も貨車から牛を降ろして、草を食べさせたり水を飲ませたりしながら旅を続けた。長いツノは、貨車の乗り降りのたびに邪魔になり、へし折られることもあったが、彼の決意がゆるぐことはなかった。

ついに一八五四年七月、ポンディングはニューヨークに到着し、首尾よく牛を高値で売ることができた。ニューヨークの人たちは誰もが、遠いテキサスから来た牛だとは思わなかった。鉄道を利用した牛のロングドライブの始まりだった。

次回更新日 2025年4月6日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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