山口由美
2025年04月06日更新

仙之助編 二十の二

テキサスから牛を連れてきたトーマス・キャンディ・ポンディングは、ニューヨークの家畜市場でひとりの男に話しかけられた。彼は新聞記者だった。

ポンディングは意気揚々と自らの武勇伝を語った。記事が掲載された新聞はテキサスにももたらされ、多くの人々を奮い立たせることになる。

だが、牛のロングドライブには多くの困難が伴った。

そのひとつが、テキサスからのルートがネイティブアメリカンの保護領を通過することだった。当時、保護領に白人が立ち入ることを禁止した法律があり、彼らはそれを理由に通行料を要求したのである。

もうひとつの障壁が「テキサス熱」と呼ぶ牛の病気だった。

テキサス牛、すなわちテキサスビッグホーンが運んでくるダニが媒介する脾臓ひぞうの病気である。テキサス牛も罹ることはあったが、丈夫でたくましい彼らは死に至ることは滅多になかった。テキサス熱にやられたのは、もっぱら北部の在来種である角の短い牛だった。

この病気は、特にテキサス牛がミズーリを通過する時に、ミズーリで発生することが多かった。そのため、ミズーリの農民たちはテキサス牛を通行禁止にして追い出した。彼らはまた、テキサス牛が牧草を食い尽くすことも懸念していた。

ミズーリを通行止めにされたことで、牛のロングドライブはカンザスに迂回した。

ところが、ここにも彼らを悩ませる火種があった。当時のカンザス準州とネブラスカ準州では、奴隷制度の容認はそれぞれの政府の決定に任されていた。そのため、カンザス準州では、奴隷制度賛成派と反対派の間に血みどろの抗争があった。奴隷制度を容認する南部のテキサスは賛成派からは敵意を抱かれていた。

こうした理由により、テキサスからの牛のロングドライブは減少する。

さらなる大打撃を与えたのが一八六一年に勃発した南北戦争だった。ロングドライブのルートは、南部と北部の陣営に分断されてしまったのである。行き先を失ったテキサス牛は、さらに大繁殖することになる。温暖な気候と水に恵まれたテキサスでは、人の手を借りずとも牛はいくらでも育ったからである。

南北戦争が終わった一八六五年頃、テキサスの草原には、所有者のわからないおびただしい数の野生の牛がいた。

こうした状況に加えて、そもそもテキサスではアメリカ合衆国に併合する以前から、所有者のわからない牛は捕まえて自分のものにすることが許されていた。

所有者を判別する唯一の方法が焼き印だった。動物の、特に牛馬の横腹や臀部に、所有者を特定し、永久に消えない焼き印を押す方法は、スペイン人が古くから用いたもので、それが新大陸に持ち込こまれた。牧場にすべての牛を囲い込むことが出来ないことから、重宝された方法だった。それでも膨大な数の牛のすべてに焼き印を押すことができない状態がしばしばあったという。

南北戦争終結後のテキサスは、まさに「牛王国」であった。

次回更新日 2025年4月13日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお