山口由美
2025年04月20日更新

仙之助編 二十の四

仙之助と富三郎が「牛の町(Cow Town)」という言葉を聞いたのは、オマハの酒場でのことだった。牛でひと山あてるには、「牛王国」のテキサスに行かなければならないと思ってはいたが、テキサスの牛が運ばれてくる拠点が、ミズーリやカンザスの鉄道駅にある、「牛の町」であることを彼らは初めて知った。

酒場にたむろする男たちは「牛の町」と言えば、かつてはミズーリ・パシフィック鉄道のセダリアだったが、鉄道が西に延びてからは、新しい「牛の町」が生まれていると熱っぽく語った。いずれにしても、セントルイスからミズーリ・パシフィック鉄道で西に向かうルートだと言う。

オマハからセントルイスに行くには、いったんシカゴを経由する必要があった。シカゴで気づけばよかったのだろうが、伊藤博文との道中に夢中だったのだからしかたない。

セントルイスに着くと、ミズーリ・パシフィック鉄道は、セダリアからカンザス・シティを経て、アビリーンまで延びていることがわかった。途中のカンザス・シティが分岐点になっていて、サンタフェ鉄道という別の鉄道が建設中だと言われた。

サンタフェ鉄道こと、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が新たな「牛の町」であるウィチタに到達するのは一八七二年五月であり、さらに先の「牛の町」であるダッジシティに到達するのは同年九月のことだった。

一八七二年四月、セントルイスに到着した仙之助と富三郎にとっては、まだ鉄道が開通していなかったこれらの「牛の町」の選択肢はなかったことになる。

こうして二人はアビリーンの駅に降り立ったのだった。
「牛の町」には季節があった。

毎年、年の初めに放牧業者はテキサスの牧場を訪れて、牛の買い付けを行う。次に馬の買い付けを行い、カウボーイを雇用する。牛のロングドライブには、馬に乗って牛を誘導するカウボーイが不可欠だった。最初の牛の一群が到着するのは五月末頃で、「牛の町」が賑わうのは、それから秋の初めまでだった。初霜が降りる前には、カウボーイも牧場主たちもテキサスに帰っていった。

テキサスに野生の牛がたくさんいる状況は変わらなかったが、一八六〇年代後半になると、小規模な「牛狩り(Cow Hant)」が主流の時代は終わり、もっぱら大がかりな「牛の狩り集め(Roundup)」が行われるようになっていた。そうして集められた牛に焼き印が押され、牧場主は所有する牛を管理した。野生の牛を捕まえて、鉄道駅に連れて行く牛のロングドライブは、組織的で大規模なものだったのだ。

四月のアビリーンは、静まりかえっていた。

カウボーイの姿もなく、牛もいない。

活気溢れる「牛の町」を期待していた仙之助と富三郎は拍子抜けして、人通りもまばらな大通りに立ちすくんだ。本当にここが人々の噂したアビリーンなのだろうか。

不安を抱えた二人の足元に一陣の乾いた風が吹き抜けた。

次回更新日 2025年4月27日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお