山口由美
2025年05月06日更新

仙之助編 二十の六

マーチャントホテルに部屋をとった仙之助と富三郎は、早速、ホテルの主人に教えられたブルズ・ヘッド・サルーンに出かけた。牛の季節であれば、カウボーイたちで賑わっているのであろう店内はしんと静まりかえっていた。

店の奥にカウンターがあり、店名の由来になった雄牛の頭が飾ってある。もちろん長い角を持つテキサスロングホーンである。

太った男がカウンターの中にいて、声をかけると立ち上がった。体が不自由なのだろうか、右足を引きずって大儀そうに歩く。
「何か食べるものはないかい」
「牛がいないから牛肉はないぞ。豆の煮込みならあるが、それでいいか」

携帯に便利で保存がきき、安くて栄養価の高い豆の煮込みは、牛のロングドライブの道中でも、カウボーイたちの基本的な食べ物だった。
「それで結構だ」
「酒はいいのかい。上等な稲妻もあるぜ」
「稲妻?」
「うちの自慢のウイスキーのことさ。稲妻のようにビビッと喉にくる」

当時、サルーンで飲まれた酒はもっぱらウイスキーで、さまざまな俗称で呼ばれることがあった。醸造技術が悪かったため、アルコール度数は二十度程度しかなく、カウボーイたちはあおるように飲んだ。得体の知れない液体を混ぜた偽酒も横行していた。
「とりあえずは腹をいっぱいにしたい」

仙之助が答えると、太った男は奥のキッチンに消えていった。

まもなく豆の煮込みとパンが運ばれてきた。

豆の煮込みとサワードゥ

豆の煮込みはまあまあだったが、パンが美味かった。見た目は無骨だが、ほんのりと酸味があり噛めば噛むほど味わい深い。ワシントンやオマハの高級ホテルでお相伴にあずかった時の白いパンよりよほど美味しい。横浜でもハワイでも食べたことのない味だった。
「うまいなあ」

仙之助が感慨深くつぶやくと、太った男がすかさず反応した。
「うまいだろう。俺が大切にしているサワードゥで焼いたパンだ」

そう言って、人懐っこい笑顔を見せた。
「サワードゥ?」
「町のパン屋が使うイースト酵母とは違う。こいつは生き物でな、大切に面倒を見てやらなきゃならん。牛のロングドライブにも連れていって、時々はこいつでパンを焼く」
「ロングドライブに加わったことがあるのかい」
「ああ、料理人として何度も旅をしたさ。サワードゥのジムと言えば、チザム・トレールじゃ知らないものはいない」

男はジムと名乗って得意げな顔をした。

次回更新日 2025年5月11日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお