- 2022年11月13日更新
仙之助編 十の二
ハワイ行きの移民は「天竺行き」「唐行き」と称して募集された。
天竺とは、古来中国や日本で用いられたインドの名称である。唐とは、中国のことだが、遠い異国を意味してもいた。見たこともない遠い異国のイメージが重ねられたのだろう。
ヴァン・リードから移民の斡旋を請け負ったのは横浜在住の木村庄平という男で、実際に人集めをしたのは、その配下で木賃宿を営む太田屋半兵衛だった。
募集に応じたのは、江戸と横浜の出身者がほとんどだった。
サトウキビ農園での労働者の募集であったのに、農業の経験者は数えるほどで、職業は、左官と瀬戸物焼きが最も多く、次いで料理人と植木屋、さらに青もの屋と生糸師(生糸を撚る仕事)、桶屋、煙草切り、紺屋(染め物屋)、鍛冶屋、魚屋、こんにゃく屋、酒造り、印刷屋、棒屋(鋤や鍬の柄をすげる仕事)、宿屋など多岐にわたった。年齢はほとんどが二十代、次いで三十代、少年の面影を残す十代も少なからずいた。血気盛んで酒と賭博が好きな遊び人が多かった。ほとんどが独身だったが、妻帯者が五人いて、その妻たちだけが女性だった。
彼らのなかで唯一、ヴァン・リードが直接、声をかけたのが、神風楼で働いていた牧野富三郎である。仙之助の手ほどきで、多少英語の素養があったのを買われて、移民頭の総代に任じられた。
「 I think so(そうですね)」ばかり連発し、「アイテキソー」と呼ばれた富三郎の英語力は、いささかあやしいものだったが、気骨と度量のある人物でリーダーにはふさわしかった。彼を心丈夫にさせたのは、ハワイに到着すれば、仙之助がいる安心感だった。
一八六八年の春、山口粂蔵のもとに捕鯨船の船長が一通の手紙を持ってあらわれた。
前年の秋、ホノルルからジャパングラウンドに向けて出航する捕鯨船に仙之助が託した手紙だった。長い航海を経て、奇跡的に富三郎の旅立ち前に届けられたのである。宛名は粂蔵だったが、書かれていた内容は富三郎への伝言だった。
「ホノルルのフォート街にあるウィルバー・ダイヤモンドという男の家で働きながら、学校に通っている。お前たちの到着を待っている」と簡潔に記されていた。
富三郎は住所の書かれた手紙をお守りのように懐に入れた。
応募者は四百人余りいたが、医師による健康診断でふるいにかけられた。合格した者だけが渡航を許されたのだが、実際は不合格者も紛れ込んでいたし、船に乗り込んでから嫌になったり、怖くなったりして止めた者も少なからずいた。
仙之助の手紙が届いたのと同じ、一八六八年の春、幕府から渡航許可がおりた。出稼ぎ移民として許可がおりたのは三百五十人、旅券が発給されたのは百八十人。そのうち実際に海を渡ったのは百五十三人だった。
移民たちには、斡旋人の木村庄平が準備した揃いの旅支度が支給された。
四角の中に「木」の文字が背中に染め抜かれた印半纏に紺の股引き、豆絞りの三尺帯である。チョンマゲ頭に江戸時代の旅姿の定番である三度笠を被った。ほとんどの者が手荷物らしいものもない、着の身着のままの旅立ちだった。
その先頭にいささか緊張気味の表情をした牧野富三郎が立っていた。