- 2023年07月09日更新
仙之助編 十二の十一
コウラウ耕地と呼ばれたサトウキビ農園は、裏オアフのコウラウ地方クアロアにあって、正式名称をワイルダー・プランテーションといった。
ハワイの主産業が捕鯨船の補給基地からサトウキビに転換したのは、石油の発見による捕鯨産業の衰退だけでなく、カメハメハ三世統治の一八五〇年以降、外国人に土地所有が認められたことが大きい。資金のあるハオレ(白人)たちは、次々と広大な土地を取得し、サトウキビ農園の経営に乗り出したのだった。
カメハメハ三世の相談役をつとめていた資産家のゲーリット・P・ジャットは、一八五〇年、王からじきじきに広大な土地を取得した。コウラウ山脈のふもと、海岸の沖合にモコリイ島という小さな島がある一帯だった。島は英語ではチャイナマンズハットと呼ばれていた。弁髪姿の中国人が被る小さな帽子に形状が似ていたからだ。
数年後には息子のチャーレス・H・ジャットが周辺の峡谷と沖合に浮かぶモコリイ島、さらに海域の漁業権も手に入れた。そして娘婿のサミュエル・G・ワイルダーと共に一八六三年に創業したのがワイルダー・プランテーションだった。
地名は正確にはクアロアだが、住む人もまばらな地域であり、当時は、もっぱらコウラウ耕地と称されていた。クアロアの地名で呼ばれるようになるのは、後にプランテーションが廃業し、牧畜が始まってからのことである。
プランテーションとは、熱帯や亜熱帯で国際的に価値の高い単一作物を大規模に栽培する農園のことをさす。植民地支配を背景として誕生したもので、砂糖が精製できるサトウキビのほか、コーヒー、カカオ、タバコ、天然ゴム、パームヤシ、綿花などがプランテーション作物として知られている。効率的な運営のためには、多くの労働力を必要としたが、南北戦争までのアメリカ南部の綿花プランテーションがそうだったように、奴隷が労働者として使役される例が少なくなかった。
ハワイのサトウキビが注目された時代、すでに奴隷貿易は終焉しており、各地で労働力として駆り出された先住民も、ハワイの場合、持ち込まれた疫病などで人口が激減していた。そこで中国人労働者が導入されたが、定着しない者が多く、日本人に白羽の矢が立てられたのが、そもそも元年者が海を渡ることになった理由だった。
ユージン・ヴァン・リードをハワイ王国駐日総領事に任命した外務大臣ワイリーもまた、サトウキビ・プランテーションの所有者だった。労働者不足は彼自身にとっての個人的な問題でもあったのだ。
移民たちが畏敬の念を持って見上げたレンガ造りの工場は、オアフ島で最初の砂糖精製工場だった。周辺で手に入る溶岩とサンゴと砂からモルタルを作り、レンガを積み上げて建設した。工場が完成したのは彼らが到着した五年前のことだから、まだ真新しく、熱帯の日差しを浴びて美しく光り輝いていた。歩き疲れた彼らも一気に元気になり口々に言った。
「立派な建物だなあ」
「ここで働くのなら悪くないなあ」