- 2023年08月20日更新
仙之助編 十三の五
クリスマスイブの夜、仙之助は、ウィルの客たちが帰った後も台所で皿洗いと片付けを一人で引き受けた。牧野富太郎のもとに帰りついたのは夜半過ぎだった。
事務所には、まだランプの火が灯っていた。
「まだ、起きていらしたのですか」
「ああ、救出嘆願書を書いていた」
「救出……、帰国を求めるということですか」
「もはや、それしかないだろう」
「誰にあてて書いているのですか、ヴァン・リードさんですか」
「俺たちは、あいつに騙されたんだぞ。その相手に手紙を書いてどうする」
富太郎は激高して声を荒げた。
「…………」
「仙之助さんがヴァン・リードを庇いたい気持ちはわかる。だが、だったならなぜ、助けを差し伸べてくれない。サイオト号の出港以来、なしのつぶてじゃないか」
「…………」
「俺たちの旅券は失効していると、移民局にも言われている。江戸幕府が発行した旅券だからだ。日本は今はもう、新政府の世の中になっている。日本でもそのことが問題になっているらしい。あいつのせいで、俺たちは、密航者になってしまった」
仙之助は、私と同じですね、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「もう、幕府の世ではないのですね」
「そうだ、だから、新しい政府に対して嘆願書を書くことにした」
月額四ドルの給与に対して物価が高すぎて生活が成り立たないこと、過酷な労働、不慣れな気候風土、生活習慣など、富太郎は、移民たちが口々に訴えた窮状を事細かく書き綴った。とりわけ感情が高ぶった表現になったのは、四人の仲間を失ったことだった。
そして、すべては、在日ハワイ総領事を名乗るユージン・ヴァン・リードが正しい情報を移民たちに伝えなかったことによる悲劇だと強い論調で断じていた。
びっしりと文字の並んだ書面をじっと見つめる仙之助に富太郎は言った。
「仙之助さんも嘆願書に名前を記してもらえませんか」
「えっ、私も、ですか」
「救出に動いてもらうためには連名のほうがいい。そう思いませんか」
仙之助は胸の鼓動が速くなるのを感じていた。ヴァン・リードの不正を訴える文書に名前を記すことへの逡巡、そして密航者である自分が公文書に存在を残すことへの不安だった。だが、移民たちにこれ以上の苦悩を与える訳にいかない。それこそが、ウィルの言っていた、優先すべきことに違いない。仙之助は決心して筆をとった。
「仙太郎」
少し震える手で自らの変名を嘆願書に記したのだった。