山口由美
2024年07月07日更新

仙之助編 十七の一

岩倉具視欧米使節団の一行を乗せた蒸気船アメリカ号が、二十三日間におよぶ太平洋の航海を終えてサンフランシスコに到着したのは、一八七二年一月十五日。旧暦では明治四年十二月六日のことだった。

サンフランシスコは、太平洋とサンフランシスコ湾に囲まれた半島の北端に開けた港町である。北に接するマリン岬との間に金門(ゴールデンゲート)海峡があり、太平洋からアプローチする際の玄関口となる。

サンフランシスコの港

この海峡に「金門」という印象的な名前をつけたのは、アメリカ陸軍将校で探検家でもあったジョン・C・フレモントである。共和党の大統領候補でもあり、奴隷制に反対した政治要綱を持つ多数党からの最初の候補者でもあった。オスマン帝国(トルコ)のコンスタンティノープル(イスタンブール)の金角(ゴールデンホーン)湾にちなんでの命名とされる。

ヨーロッパ大陸から角のように突き出した金角湾がヨーロッパとアジアの境界であるのに対し、金門海峡は、アジアとアメリカの境界ということになる。

フレモントの命名は一八四六年のことだったが、三年後の一八四九年にサンフランシスコ郊外で金鉱が発見され、ゴールデンラッシュが始まった。多くの人々がカリフォルニアに押し寄せたが、中国人移民など太平洋を渡ってきた者たちにとっては、黄金の名を冠した海峡は、彼らの夢を象徴する名称となった。

アメリカ号が金門海峡に入ったのは、一月十五日の早朝だった。

マストには、高々と日の丸が掲げられていた。

今日のサンフランシスコを象徴するゴールデンゲートブリッジが、完成するのは一九三七年になるが、当時は、この海峡に入ることが、長旅を終えてサンフランシスコに到着した感動が湧き上がる瞬間だった。

夜明け前から、甲板には使節団の一行が、大海原の彼方にあらわれる目的地をいち早く見ようと詰めかけていた。

サンフランシスコ周辺は、年間の気温差の少ない温暖な地中海性気候で、夏は晴れて乾燥し、冬は湿潤で雨が多い。だが、この年の冬は雨が少なく、その朝もよく晴れていた。

蒸気船が湾内に入り、港の桟橋に近づいた頃、港と反対側の方角から礼砲が轟いた。

湾内に浮かぶアルカトラズ島の要塞に設置された大砲から発されたものだった。

サンフランシスコが太平洋航路の要衝となり始めた一八五二年、島に初めての灯台が設置され、南北戦争の頃には、港を警備する要塞として砲台が整備されるようになった。

二十一発の礼砲は、使節団を最大級に歓迎するものだった。

アメリカ政府にとっては、鎖国していた日本を開国に導いたのは自国であることの自負があった。明治政府の高官の訪問は、すでにあったが、今回はミカドから信任された特命全権大使の一行が訪問する特別な使節団として認識されていた。

アメリカ号のサンフランシスコ到着は、奇しくも、横浜の神風楼で山口仙之助がトメと祝言をあげた日の出来事だった。

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次回更新日 2024年7月14日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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