山口由美
2024年11月24日更新

仙之助編 十八の八

幕末から明治期にかけて、いち早く海を渡った日本人で数が多かったのが軽業師や曲芸団だった。開国にともない、一八六六に正式に旅券発給が始まった時も、第一号は墨田川浪五郎という曲芸団の一員だったと記録に残っている。

たとえば、幕末期に海外で活躍した軽業師で歴史に名を残しているのは、早竹虎吉である。

軽業師早竹虎吉

京都生まれで、関西で評判を博した後、幕末の一八五七年(安政四)年に江戸にやって来て両国で興行を始めるやいなや、たちまち人気を博した。歌舞伎仕立ての衣装をまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台は、興行のみならず、曲芸の様子を描いた錦絵も大人気となった。虎吉が得意としたのは、長い竿を用いた曲芸だった。

その人気をもって、一八六七(慶応三)年、虎吉は三〇人ほどの団員と共に横浜からサンフランシスコに渡り、全米各地を興行したのである。

仙之助たちが遭遇したロイヤル江戸劇団は、運動神経の巧みなメンバーが揃っていた。その能力を見込まれたのだろう、巡業中のアメリカで野球の手ほどきを受けた。

そしてワシントンに滞在中、運命の巡り合わせで、大リーグの前身にあたるナショナル・アソシエーション所属の地元球団オリンピックスと対戦することになる。

当時のアメリカは、野球の黎明期だった。スポーツとしての野球のルールが確立されたのは一八四五年のことであり、それに則って、翌年、ニューヨークのマンハッタンで開催されたのが、野球の事始めとされる。こうして北部で始まった野球は、南北戦争で南部にも広まり、国民的スポーツになっていった。

一八七二年二月二十九日、岩倉使節団だけでなく、ロイヤル江戸劇団、そして仙之助と富三郎、さまざまな背景を持った日本人たちは、期待と希望を持って、小雪舞うワシントンのユニオン駅に降り立ったのだった。

下車は一等車の乗客が優先だった。日本からの賓客が到着と言うことで、二等車と三等車の乗客は、しばし車内に留め置かれた。

せっかくの幸運を逃さないために、できれば駅舎内で岩倉使節団に声をかけたいと、仙之助と富三郎は、居てもたってもいられない気持ちでうずうずしていた。だが、いよいよ下車の段になって、ロイヤル江戸劇団の連中が、演目に使う太鼓が見当たらないと大騒ぎを始めた。二等車から興行主がやってきて、三等車の乗客を疑い始めた。一刻も早く下車したい乗客たちが、あらぬ嫌疑までかけられて苛立ったのは言うまでもない。車内は一触即発の状況になった。

興行主は仙之助と富三郎にも疑いを向けたが、それは年長の男が取りなしてくれた。

結局、太鼓は、持ち主がいつもと違う荷物の中に押し込んでいたことがわかって一件落着となったが、大騒ぎのせいで、ロイヤル江戸劇団とも後味の悪い別れとなった。

ようやくユニオン駅に降り立つと、すでに駅舎内に一等車の乗客はいなかった。

岩倉使節団の一行は、馬車で出発した後だった。

仙之助と富三郎は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

次回更新日 2024年12月1日

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

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