山口由美
2019年02月04日更新

仙之助編二十の一から最新話まで

仙之助編二十の一

十七世紀、スペイン領メキシコに入植したスペイン人たちは、耕作に向かなかった新大陸で、牛を飼育することに成功した。気候が温暖で牛の放牧が容易だったからだ。最適だったのがメキシコ北部であり、後のアメリカ南西部、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州が含まれていた。特にテキサスでは、十八世紀になると、多くの牛が繁殖するようになり、十九世紀に「牛王国」と呼ばれるようになる基礎が築かれた。

テキサスがアメリカ合衆国の新しい州として併合されたのは一八四五年のことである。牛を求めてさらなる入植者がテキサスにやってきた。

牛の陸上輸送が、牛のロングドライブとして、ゴールドラッシュに匹敵する一攫千金の手段になった背景には、アメリカ大陸における鉄道網の整備があった。

牛を鉄道で運ぶという画期的な方法を考えついたのは、トーマス・キャンディ・ポンディングというイリノイに入植した若いイギリス系の農夫だった。入植前から牛の陸上輸送に経験のあった彼は、当初、イリノイから運んだ牛をウィスコンシンの入植者たちに売っていた。しかし、彼らが最初から牛を連れて入植するようになると、ウィスコンシンでの商売は下火になった。そこでポンディングは、たくさんの牛がいるテキサスに行くことを思いつく。一八五三年のことだった。

テキサスの牛をイリノイに運ぶのは、隣接する州であるイリノイからウィスコンシンに牛を運ぶのとは訳が違った。テキサスからネイティブアメリカンの保護領を通り、アーカンソーを経てミズーリ州のセントルイスに至る。緊張と困難を伴う旅だった。

セントルイスから牛を連れてミシシッピ川を渡り、イリノイに到着したポンディングは、ここで冬を過ごし、大部分の牛を売りさばくと、翌年の春、手元に残していた一五〇頭のとりわけよく肥えた牛をニューヨークに連れていくことを決心する。

牛を鉄道に乗せることを思いついたのは、インディアナ州のマンシーという町の鉄道駅に到着した時のことだ。彼の脳裏に何かひらめくものがあったのだろう。

当時の鉄道には、家畜輸送用の貨車はなかったし、一般の貨車に牛を乗せるのは大変な作業だった。テキサス牛の特徴である長いツノがとりわけ厄介だった。

スペイン人が入植時に持ち込んだのがテキサスロングホーンと呼ばれるこの牛だった。環境に適合した牛は一部が野生化し、アメリカの在来種であるバイソンを押しのけて繁殖した。テキサスに行けば牛がいくらでもいるとされた、ロングドライブブームの背景にテキサスロングホーンの大繁殖があったのだ。

テキサスロングホーン

ポンディングは、途中何回も貨車から牛を降ろして、草を食べさせたり水を飲ませたりしながら旅を続けた。長いツノは、貨車の乗り降りのたびに邪魔になり、へし折られることもあったが、彼の決意がゆるぐことはなかった。

ついに一八五四年七月、ポンディングはニューヨークに到着し、首尾よく牛を高値で売ることができた。ニューヨークの人たちは誰もが、遠いテキサスから来た牛だとは思わなかった。鉄道を利用した牛のロングドライブの始まりだった。

仙之助編二十の二

テキサスから牛を連れてきたトーマス・キャンディ・ポンディングは、ニューヨークの家畜市場でひとりの男に話しかけられた。彼は新聞記者だった。

ポンディングは意気揚々と自らの武勇伝を語った。記事が掲載された新聞はテキサスにももたらされ、多くの人々を奮い立たせることになる。

だが、牛のロングドライブには多くの困難が伴った。

そのひとつが、テキサスからのルートがネイティブアメリカンの保護領を通過することだった。当時、保護領に白人が立ち入ることを禁止した法律があり、彼らはそれを理由に通行料を要求したのである。

もうひとつの障壁が「テキサス熱」と呼ぶ牛の病気だった。

テキサス牛、すなわちテキサスビッグホーンが運んでくるダニが媒介する脾臓ひぞうの病気である。テキサス牛も罹ることはあったが、丈夫でたくましい彼らは死に至ることは滅多になかった。テキサス熱にやられたのは、もっぱら北部の在来種である角の短い牛だった。

この病気は、特にテキサス牛がミズーリを通過する時に、ミズーリで発生することが多かった。そのため、ミズーリの農民たちはテキサス牛を通行禁止にして追い出した。彼らはまた、テキサス牛が牧草を食い尽くすことも懸念していた。

ミズーリを通行止めにされたことで、牛のロングドライブはカンザスに迂回した。

ところが、ここにも彼らを悩ませる火種があった。当時のカンザス準州とネブラスカ準州では、奴隷制度の容認はそれぞれの政府の決定に任されていた。そのため、カンザス準州では、奴隷制度賛成派と反対派の間に血みどろの抗争があった。奴隷制度を容認する南部のテキサスは賛成派からは敵意を抱かれていた。

こうした理由により、テキサスからの牛のロングドライブは減少する。

さらなる大打撃を与えたのが一八六一年に勃発した南北戦争だった。ロングドライブのルートは、南部と北部の陣営に分断されてしまったのである。行き先を失ったテキサス牛は、さらに大繁殖することになる。温暖な気候と水に恵まれたテキサスでは、人の手を借りずとも牛はいくらでも育ったからである。

南北戦争が終わった一八六五年頃、テキサスの草原には、所有者のわからないおびただしい数の野生の牛がいた。

こうした状況に加えて、そもそもテキサスではアメリカ合衆国に併合する以前から、所有者のわからない牛は捕まえて自分のものにすることが許されていた。

所有者を判別する唯一の方法が焼き印だった。動物の、特に牛馬の横腹や臀部に、所有者を特定し、永久に消えない焼き印を押す方法は、スペイン人が古くから用いたもので、それが新大陸に持ち込こまれた。牧場にすべての牛を囲い込むことが出来ないことから、重宝された方法だった。それでも膨大な数の牛のすべてに焼き印を押すことができない状態がしばしばあったという。

南北戦争終結後のテキサスは、まさに「牛王国」であった。

仙之助編二十の三

一八六五年当時、テキサスの牛の価格と東部の市場で取引される牛の価格には、およそ十倍以上の差があったという。牛のロングドライブがゴールドラッシュに匹敵する一攫千金とされた理由である。

牛が集結する積み出し拠点として、最初に注目された鉄道駅は、ミズーリ州のセダリアだった。ミズーリ・パシフィック鉄道がセダリアまで延伸したことで、セントルイスや北東部の都市まで牛を運ぶことができるようになったからだ。

セダリアまでのルートは問題点も多かった。テキサス熱のために反対する農民たちの抵抗、ネイティブアメリカンの保護領における通行料などである。とりわけ人々が恐れたのは、カンザスの「ジェイホーカー」と呼ばれたゲリラだった。準州の時代、カンザスは奴隷制度を容認するかどうかで混乱したが、「ジェイホーカー」とはもともと反奴隷制の立場で闘った者たちを呼んだあだ名だった。ところが、彼らはテキサス熱の牛を阻止することを旗印に、強盗団になる者があとを絶たなかった。勝手に通行料を強要したり、牛を略奪したりして、反抗する者は容赦なく射殺した。

やがてセグリアまでのロングドライブは危険だということで、東寄りや西寄りのルートが開拓された。こうして生まれた新しいルートこそが、いわゆるカウボーイの活躍する舞台であり、牛のロングドライブの黄金時代を象徴するものとなる。

そのひとつが西部劇で知られる「チザム・トレール」である。スコットランド人の父とチェロキー族の母を持つジェシー・チザムが開発したルートだった。家畜商のジョセフ・マッコイがロングドライブのルートに使ったことで有名になった。

テキサスのサン・アントニオから続くトレールの終着点がカンザス州のアビリーンだった。言うまでもなく、カンザス・パシフィック鉄道の駅である。

マッコイはアビリーンに牛の売買ができる出荷拠点を設けることを思いつく。それまで牛で儲けようとする者は、牛を連れて鉄道で東部の都市まで行く必要があった。だが、マッコイの発案により、鉄道駅で牛を仲買人に任せることができるようになったのだ。

セグリアにとってかわって「牛の町」となったアビリーンには年を追うごとに多くの牛が集結した。最も数多くの牛が集まったのが一八七一年であり、その数は年間で七十万頭におよんだ。

ところが、山口仙之助と牧野富三郎がオマハで伊藤博文の一行と別れた一八七二年三月、アビリーンの運命を変える決定が下される。

牛のロングドライブに関与しない周辺住民が、テキサス熱への恐れやカウボーイたちの乱暴な振る舞いに業を煮やし、テキサスの牧場主に牛の立ち入り禁止を正式に伝えたのである。こうしてアビリーンが牛の売買を独占していた時代は終わりを告げる。一八七一年は繁栄の最後の年となった。

だが、牛のロングドライブがなくなった訳ではなかった。「牛の町」の主役がとってかわっただけのことだった。牛売買の拠点に名乗りをあげる町は後を絶たなかった。

仙之助編二十の四

仙之助と富三郎が「牛の町(Cow Town)」という言葉を聞いたのは、オマハの酒場でのことだった。牛でひと山あてるには、「牛王国」のテキサスに行かなければならないと思ってはいたが、テキサスの牛が運ばれてくる拠点が、ミズーリやカンザスの鉄道駅にある、「牛の町」であることを彼らは初めて知った。

酒場にたむろする男たちは「牛の町」と言えば、かつてはミズーリ・パシフィック鉄道のセダリアだったが、鉄道が西に延びてからは、新しい「牛の町」が生まれていると熱っぽく語った。いずれにしても、セントルイスからミズーリ・パシフィック鉄道で西に向かうルートだと言う。

オマハからセントルイスに行くには、いったんシカゴを経由する必要があった。シカゴで気づけばよかったのだろうが、伊藤博文との道中に夢中だったのだからしかたない。

セントルイスに着くと、ミズーリ・パシフィック鉄道は、セダリアからカンザス・シティを経て、アビリーンまで延びていることがわかった。途中のカンザス・シティが分岐点になっていて、サンタフェ鉄道という別の鉄道が建設中だと言われた。

サンタフェ鉄道こと、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が新たな「牛の町」であるウィチタに到達するのは一八七二年五月であり、さらに先の「牛の町」であるダッジシティに到達するのは同年九月のことだった。

一八七二年四月、セントルイスに到着した仙之助と富三郎にとっては、まだ鉄道が開通していなかったこれらの「牛の町」の選択肢はなかったことになる。

こうして二人はアビリーンの駅に降り立ったのだった。
「牛の町」には季節があった。

毎年、年の初めに放牧業者はテキサスの牧場を訪れて、牛の買い付けを行う。次に馬の買い付けを行い、カウボーイを雇用する。牛のロングドライブには、馬に乗って牛を誘導するカウボーイが不可欠だった。最初の牛の一群が到着するのは五月末頃で、「牛の町」が賑わうのは、それから秋の初めまでだった。初霜が降りる前には、カウボーイも牧場主たちもテキサスに帰っていった。

テキサスに野生の牛がたくさんいる状況は変わらなかったが、一八六〇年代後半になると、小規模な「牛狩り(Cow Hant)」が主流の時代は終わり、もっぱら大がかりな「牛の狩り集め(Roundup)」が行われるようになっていた。そうして集められた牛に焼き印が押され、牧場主は所有する牛を管理した。野生の牛を捕まえて、鉄道駅に連れて行く牛のロングドライブは、組織的で大規模なものだったのだ。

四月のアビリーンは、静まりかえっていた。

カウボーイの姿もなく、牛もいない。

活気溢れる「牛の町」を期待していた仙之助と富三郎は拍子抜けして、人通りもまばらな大通りに立ちすくんだ。本当にここが人々の噂したアビリーンなのだろうか。

不安を抱えた二人の足元に一陣の乾いた風が吹き抜けた。

仙之助編二十の五

アビリーンの大通りで仙之助と富三郎は「マーチャントホテル」という看板の掛かった建物を見つけた。

オマハのアーリントンホテルとは比べるべくもない、粗末な二階建ての木造の建物だった。それでも建物の真新しさが、この町が最近生まれたことを物語っていた。

長旅の旅装を解いて一息つきたかったし、町の情報も仕入れたかった。

中に入っても誰もいない。帳場にも人影はなかったが、半開きのドアの向こうに人の足らしきものが見えた。誰かが椅子に寝そべっている。
「すみません、部屋はありますか」

仙之助は足の見える方向に声をかけた。

しばらくすると、くしゃくしゃの髪を撫でつけながら赤ら顔の男が姿をあらわした。
「こりゃあ驚いた。こんな季節にお客さんかい」
「部屋はありますか」
「ああ、いくらだってあるさ。泊まってくれるだけで大歓迎だ。お前さんたち、いったい何をしに来たんだ。どう見たってカウボーイじゃないな。商人かい」
「アビリーンは牛の町だと聞いたので」
「ここに来ればいい商売になると思ったのか」
「まあ、そんなところです」
「いつもの年なら、あと一月余りしたらテキサスから牛とカウボーイが来るはずなんだが、今年は来ねえよ」
「どういうことですか」
「どうもこうもないさ。アビリーンに牛がやって来るのを面白く思っていない奴がテキサス牛を立ち入り禁止にしちまったのさ。テキサスの牧場にお達しをしたって言うんだから仕方ない。今年はアビリーンに牛は来ない、カウボーイも来ない、ということだな」
…………
「知らなかったんじゃ、驚くのも無理はねえよな」
…………
「まあまあ、お客さん、せっかく来たんだから、とりあえず泊まって休んでいきなよ。牛の季節には安くて美味い飯を出すんだが、今はあいにくコックも暇を出しちまった。だがな、ブルズ・ヘッド・サルーン(Bull‘s Head Saloon)は店を開けているぜ。去年開業して町一番の人気になったところさ。あそこに行けば、酒も飲めるし、飯も食える」

サルーンとは、西部劇にしばしば登場する開拓時代のアメリカに特有のバーである。カウボーイたちは、ここで酒を飲み、娼婦と戯れ、賭博もすれば喧嘩もした。

雄牛の頭を意味するブルズ・ヘッドの名前を冠したサルーンは、フィル・コーという賭博師でもあったテキサス生まれの商人とガンマンとして名を馳せたベン・トンプソンが開業したもので、アビリーンの歴史にも登場する。西部開拓史上有名なサルーンだった。

仙之助編二十の六

マーチャントホテルに部屋をとった仙之助と富三郎は、早速、ホテルの主人に教えられたブルズ・ヘッド・サルーンに出かけた。牛の季節であれば、カウボーイたちで賑わっているのであろう店内はしんと静まりかえっていた。

店の奥にカウンターがあり、店名の由来になった雄牛の頭が飾ってある。もちろん長い角を持つテキサスロングホーンである。

太った男がカウンターの中にいて、声をかけると立ち上がった。体が不自由なのだろうか、右足を引きずって大儀そうに歩く。
「何か食べるものはないかい」
「牛がいないから牛肉はないぞ。豆の煮込みならあるが、それでいいか」

携帯に便利で保存がきき、安くて栄養価の高い豆の煮込みは、牛のロングドライブの道中でも、カウボーイたちの基本的な食べ物だった。
「それで結構だ」
「酒はいいのかい。上等な稲妻もあるぜ」
「稲妻?」
「うちの自慢のウイスキーのことさ。稲妻のようにビビッと喉にくる」

当時、サルーンで飲まれた酒はもっぱらウイスキーで、さまざまな俗称で呼ばれることがあった。醸造技術が悪かったため、アルコール度数は二十度程度しかなく、カウボーイたちはあおるように飲んだ。得体の知れない液体を混ぜた偽酒も横行していた。
「とりあえずは腹をいっぱいにしたい」

仙之助が答えると、太った男は奥のキッチンに消えていった。

まもなく豆の煮込みとパンが運ばれてきた。

豆の煮込みとサワードゥ

豆の煮込みはまあまあだったが、パンが美味かった。見た目は無骨だが、ほんのりと酸味があり噛めば噛むほど味わい深い。ワシントンやオマハの高級ホテルでお相伴にあずかった時の白いパンよりよほど美味しい。横浜でもハワイでも食べたことのない味だった。
「うまいなあ」

仙之助が感慨深くつぶやくと、太った男がすかさず反応した。
「うまいだろう。俺が大切にしているサワードゥで焼いたパンだ」

そう言って、人懐っこい笑顔を見せた。
「サワードゥ?」
「町のパン屋が使うイースト酵母とは違う。こいつは生き物でな、大切に面倒を見てやらなきゃならん。牛のロングドライブにも連れていって、時々はこいつでパンを焼く」
「ロングドライブに加わったことがあるのかい」
「ああ、料理人として何度も旅をしたさ。サワードゥのジムと言えば、チザム・トレールじゃ知らないものはいない」

男はジムと名乗って得意げな顔をした。

仙之助編二十の七

仙之助は、牛のロングドライブに何度も加わったというジムに思わず尊敬のまなざしを向けた。やっと捜し物のかけらを見つけた気がしたのだった。
「凄いなあ」
「おいおい、ここでロングドライブに参加しないでどうする。そもそもお前たち、なんで季節外れの牛の町に来たのかい」

ホテルの主人もそうだったが、二人が季節を読み誤っていることに呆れはするが、彼らの出自を聞こうとはしなかった。「牛の町」には、人種も背景もさまざまな人間が集まってくるからなのだろう。

ジムはグラスにウィスキーを注ぐと、ぐいと一口飲んだ。

その動作で右足だけでなく、右手も不自由であることがわかった。
「お前たちに聞く以前に、俺だって、なんでこんな季節外れの牛の町にいるのかって、思うよな。こんな体になっちまわなければ、今頃は牛のロングドライブに出ていたさ」
「どうされたんですか」
「どうもこうもねえ。テキサスに戻ろうって日に突然、めまいがして倒れちまったのさ。右半身が動かなくなって、もう駄目かと思ったよ。こうして命が助かっただけで儲けもんだな。贅沢は言えねえや」
「よかったです……。ご無事で」
「ありがとよ。お前の名前はなんていう」
「ジョンセンです」
仙之助の口を自然について出たのは、捕鯨船時代の名前だった。

伊藤博文との会話で呼ばれたこともあって、当時の気持ちが甦っていた。ジョンセンを名乗ることで、未知の世界への好奇心が湧いてくる。
「お前は」

富三郎は少し考えてから答えた。
「トミーと呼んでくれ」

ハワイ時代から日本語に馴染みのない相手に使っていた愛称だった。
「ジョンセンとトミーか。お前たち、どう見てもカウボーイには見えないが、なんで季節外れの牛の町に来たんだ」

ジムは、もう一度真顔で聞いた。
「大陸横断鉄道でテキサスから牛を運べば大もうけできると聞きました。まずは牛の町に行けばいいと思い、アビリーンに来てみたら、今年からテキサス牛が立ち入り禁止になったという話を聞いて……
「途方に暮れたわけか。ハハハハ、ハハハハ。こりゃあいい。まあ、お前たちのような事情のわからん輩もたくさん来るのが牛の町だからな。だいたい季節外れの牛の町にろくな奴がいる訳はないな。俺を含めてな。」

仙之助編二十の八

仙之助と富三郎は、ジムに勧められて稲妻と称するウィスキーを飲んだ。

ほのかに薬草のような味と土の匂いがして、刺激を感じる。得体の知れない味ではあったが、不味くはなかった。

ジムは自分のグラスにもう一杯、ウィスキーを注いで独り言のようにつぶやいた。
「あんまり飲んじゃ、医者に怒られるな。もっとも倒れた俺を介抱してくれた医者もこの町にはもういないが。命が惜しけりゃ、酒はたいがいにしろと言われたもんだ」

しばしの沈黙があった次の瞬間、ブルズ・ヘッド・サルーンのドアが開いた。
「おう、サワードゥのジム、元気にやっているか」

振り返ると、カウボーイハットを被った痩せた男が立っていた。

カウボーイのジョーイ

「もう一人、死に損ないがやってきだぞ」

ジムは仙之助と富三郎にささやいた。それを聞いて男が不機嫌そうに言った。
「死に損ないに死に損ない呼ばわりされる筋合いはねえ」
「ジョーイ、今日は新しい客がいるぞ」
「ふん、季節外れの牛の町に来る奴なんて、ろくなもんじゃねえ」

ジョーイと呼ばれた男は、仙之助たちの姿を一瞥した後、カウンターの隣に座った。
「ジョンセン、トミー、こいつがジョーイだ。俺と同じにテキサスに戻る直前に腹の激痛で動けなくなって、あやうく死にかけた」
「ふん、余計なこと言うんじゃねえ。ジョンセンとトミーか。お前ら、季節外れの牛の町に何で来たんだ」

ジョーイも同じ質問をする。仙之助たちが答える前にジムが答えた。
「牛の町に来れば一儲けできると聞いて、事情もわからずアビリーンに来ちまった、不運者さ。運が悪いって意味じゃあ、俺たちと同じだな」
「死に損ないと間抜けどもってわけか。今のアビリーンにはそんな奴しかいないよな」

ジムはジョーイの前にもグラスをおいてウィスキーを注いだ。

仙之助は恐る恐るジョーイに話しかけた。
「はじめまして、ジョーイ。えっと……、あなたはカウボーイですか?」

いきなりジョーイは大声で笑い出した。
「おいおい、お前、いきなり何てことを聞きやがる。俺がカウボーイ以外の何に見えるって言うんだよ」
「牛のロングドライブにも行ったんですね」
「当たり前だよ。サワードゥのジムと一緒に何度もテキサスと往復したさ。憎まれ口を叩きやがるが、こいつの飯は美味いんだ。特にサワードゥは絶品だ」

仙之助は、ジムとジョーイのやりとりを聞きながら、捕鯨船での乗組員たちのやりとりを思い出していた。悪態をつきながらも厳しい環境で働く者たちの間には、運命共同体とでも言うべき連帯がある。太平洋でクジラと挌闘した日々がよみがえってきた。

仙之助編二十の九

「おい、お前らもカウボーイになりたいのか」

ジョーイの問いかけに、まず答えたのが富三郎だった。
「そうだ、カウボーイになりたいと思っている。馬には乗れる」

富三郎が東北出身の武士階級であることを思い出した。乗馬の心得がない仙之助は焦ってしまった。牛の群れを追うカウボーイの基本は乗馬なのだ。

仙之助の不安をよそに、またジョーイが笑う。
「おいおい、馬に乗れるなんて、子供でも出来ることを自慢げに言うな。面白い奴だな。お前ら、メキシコの出身じゃねえのか」

メキシコ人はモンゴロイド系の先住民の血が混じった者も多い。彼らの容貌を見て、メキシコ人と勘違いしたのだろう。

仙之助は意を決して言った。
「私は馬に乗れません。でも、私も乗馬の稽古をして、カウボーイになりたいです」
「おい、お前、今なんて言った。馬に乗れないだと?」

ジョーイはもはや笑うこともなく、呆れたような表情で仙之助を見た。
「私たちはメキシコ人じゃありません。日本から来ました」
「は、ジャパン?どこの部族だ」

一八七二年の牛の町では、日本は余りに遠い未知の国だった。
「カリフォルニアのはるか彼方、太平洋を渡った先にあります」
「お前たち、太平洋を渡ってきたのか」

ジョーイが興味津々に身を乗り出してきた。仙之助は得意げに答えた。
「もちろんです。太平洋ではクジラを捕っていました」

クジラを仕留める瞬間

「ほう、クジラか」
「太平洋ではクジラを捕ったのだから、牛の町ではカウボーイになりたいんです」

富三郎も仙之助に負けじと答えた。
「俺は日本のサムライだった」
「サムライ?」

仙之助が助け船を出す。
「日本の勇敢な戦士ということです」
「ジョンセン、トミー、ようするにお前らは、太平洋の彼方から来たクジラ捕りと戦士だと言うんだな。それが牛の町でカウボーイになりたいのか。おいおい、面白れえじゃねえか。よおし、俺がカウボーイの基本をお前たちに叩き込んでやる」
「本当ですか?」

仙之助がたずねた。
「本当だとも。俺たち、死に損ないと組んで一発やろうぜ」

ジョーイは上機嫌にウィスキーをぐいと飲み干した。

仙之助編二十の十

牛のロングドライブの旅は過酷だった。

中西部の気候は気温の寒暖差が大きく、朝晩は寒くて、日中は暑い。竜巻や砂嵐に見舞われることも少なくなかった。悪天候は牛の不安をあおり、暴走がおきるきっかけになった。牛の暴走(Stampedeスタンピード)は、ロングドライブにおいて最も恐れられたことだった。カウボーイたちには寝床もなく、夜になれば、毛布にくるまって草原に体を横たえるしかない。入浴することはもちろん、着替えもままならなかった。

そうした状況では、当然、健康を害する者もあった。カウボーイが命を落とす理由は、必ずしも西部劇に描かれているような決闘ではなく、実際は、むしろ過酷な生活環境ゆえの病気や怪我が多かったのである。
「牛の町」には、金を持ったカウボーイを目当てにいろいろな商売の者たちが集まった。そうしたなかに医者や歯医者もいた。「牛の町」にやって来る医者は玉石混淆で、診療を金儲けの手段としか考えない者も多く、偽医者も少なくなかった。

アビリーンでジムとジョーイを手当したのは、東部の医科大学を卒業した正規の免許を持つ女医だった。その意味で、彼らは運が良かったのだが、そもそも一九世紀の医療では、脳卒中などの脳疾患を治す技術はなかったから、ジムの場合は、たまたま発作が軽くて命拾いしたのだろう。

アビリーンで冬を越したジムとジョーイは、再び牛のロングドライブに加わるべく、テキサスに帰るタイミングを図っていた。だが、体調が万全でなく不安を覚えていた彼らの前にあらわれたのが仙之助と富三郎だったのだ。

ジョーイは彼らをまず雑貨屋に連れて行った。当時、アビリーンで一番の人気を誇った「テキサス屋」という店だった。食料品から衣服、調理器具や皿などの雑貨から銃に至るまで、生活に欠かせないものは何でも売っていた。ジョーイに勧められて仙之助と富三郎が購入したのは、カウボーイハットと丈夫な衣服だった。

つばの広いカウボーイハットは格好をつけるためのものではなく、実用品としての意味合いが大きかった。日差しや雨から頭や顔を守るのはもちろん、水を汲むバケツ代わりにもなり、火をおこす時のうちわにもなった。カウボーイたちは、朝起きると、何はさておきまずこれを被り、夜寝る直前まで身につけていた。

丈夫な作業ズボンとして好まれたのは、ゴールドラッシュのカリフォルニアで誕生した分厚い綿布のデニムを虫除け効果のある青色の染料(インディゴ)で染めたものだった。リーバイス・ストラウスという東部からやって来た男がテントや日除けに用いるキャンバス生地を販売しようと目論んだが、さっぱり売れなかったのでズボンに仕立てたところ、丈夫な作業着として大当たりした。その後、工場生産するようになってからデニム生地が使われるようになったものである。

仙之助と富三郎は、さらに首に巻くバンダナを購入した。これも強風や吹雪の時に首や顔を守る実用品であり、合図の旗や包帯の代わりをすることもあった。

仙之助編二十の十一

カウボーイの装備として、もうひとつ欠かせないのがブーツだった。

鐙にぴったりと合うようにかかとの高い、つま先の尖った、いわゆるカウボーイブーツである。一八七〇年代のものは、後の時代に見るような派手な装飾はまだ施されていなかったが、その原型は完成されていた。

ブーツだけは専門店の靴屋で購入する。カウボーイたちが最もこだわり、金をかけた装備だった。丁寧な作りの手縫いのものが好まれた。

ブーツのかかとには、金属製の拍車を取り付ける。これで馬に刺激を与えることで、速く走らせるのである。歩くたびに拍車がジャラジャラと音を立てるのも、カウボーイらしさのひとつだった。

アビリーンの周辺には良質な牧草の生えた平原が広がっていた。テキサスからやって来た牛は、鉄道に積み込まれるまでの間、この牧草地で過ごすことができた。

この牧草地で仙之助の乗馬の稽古をすることになった。

ジョーイは「ドナ」と呼ぶ馬を連れてきた。

昨年の秋、テキサスからの牛のロングドライブで乗ってきた馬らしかった。その昔、お気に入りだった娼婦の名前なのだと言う。

まずは乗馬の心得のある富三郎が、ジョーイの馬に乗った。

ハワイのサトウキビ農園でも、ルナと呼ばれる現場監督は馬に乗っていた。富三郎はハワイに渡航してからも、しばしば馬に乗る機会があったらしい。

当時、テキサスなどの牧場で用いられていたのは、メキシコに入植したスペイン人からもたらされたものを原型とする、鞍の前後の部分が高くなった鞍だった。カウボーイたちはイギリス式の平たい鞍のことを「パンケーキ」などと呼んで馬鹿にした。鞍の後ろが高くなっているので、山岳地帯の傾斜地でも、後ろに倒れる体を鞍が支えてくれる。

ハワイにもカリフォルニアを経由して同じタイプの鞍が伝わっており、手綱の扱い方も同じだったので、富三郎は手慣れた様子で乗りこなした。
「トミー、馬の扱いは問題ないな」

次に仙之助が乗ってみる。手綱と馬のたてがみを持って、鐙に足をかけて、えいやっとまたがる。馬の背からは視線が高くなり、草原の彼方まで見渡せた。

富三郎が手綱の持ち方や扱い方を指導する。
「肘を曲げて、背筋を伸ばして。頭から肩、お尻まで体が一直線になるように。馬を止める時は、手綱を引いて、少し体を起こす。そうそう、あまり強く引かないように」

日本語で指導する様子をジョーイは興味深く見つめていた。
「おう、筋がいいじゃねえか。お前らの言葉はよくわからんが、トミーの教え方がいいんだろうな。馬も牛も同じでな。とにかく脅かしちゃいかん。走って近寄ったりすると、びっくりしちまうからな」

馬をゆっくり歩かせることから仙之助の稽古が始まった。

仙之助編二十の十二

ブルズ・ヘッド・サルーンは、商売の心得があったフィル・コーがもっぱら切り盛りをしていたが、一八七一年十月に乱闘騒ぎがあり、射殺されてしまった。共同経営者のベン・トンプソンは、いったん店を閉めようとしたが、体が動くようになったサワードゥのジムにしばらく店を任せることしたものだった。ジムにしてみれば、寝泊まりするところが出来て、食べるに困らない状況が得られたことは願ってもない幸運だった。

仙之助と富三郎もマーチャントホテルを引き払って、ブルズ・ヘッド・サルーンに転がり込むことにした。この先、いつになったら金が稼げるかわからない。仕事にありつけるのがテキサスだとすれば、金の無駄遣いは出来なかった。

ブルズ・ヘッド・サルーンの裏手には一台の大きな幌馬車が停めてあった。

チャックワゴン

「俺の相棒のチャック・ワゴン(Chuck Wagon)さ」

ジムが自慢げに言う。西部開拓時代に活躍した炊事用の馬車だった。奥には居住スペースもあって、仙之助と富三郎はそこに寝泊まりすることになった。

チャック・ワゴンは、後ろの扉の板を外し、支柱で支えると、調理台になる。引き出しのある箱が収納されていて、小麦粉、塩、砂糖、豆、塩漬けの豚肉、乾燥果物などの食料品、コップや皿、調理器具がしまってあった。

最も重要な調理器具は、鋳鉄製の鍋であるダッチオーブンだった。

炭火をおこして、その上に鍋をおいて調理する。煮込み料理から、肉のローストやパンも焼ける。仙之助たちが最初にブルズ・ヘッド・サルーンで味わった豆の煮込みと自慢のサワードゥも全てダッチオーブンで調理したものだった。

乗馬では富三郎が優位だが、キッチン周りの仕事が器用なのは仙之助である。捕鯨船でもホノルルでもハウスボーイとして働いていた経験があったし、見様見真似で朝食など、簡単な料理は作ることができた。

右手に麻痺が残り不自由していたジムは手伝いする者が出来て大喜びだった。
「今日は、俺のサンノバビッチ・シチューを作ろうぜ」

どこからか牛肉の臓物を手に入れてきたジムは、上機嫌にそう言うと、仙之助にタマネギとにんじんを刻むように命じた。

サンノバビッチ(Sun of a Bitch/娼婦の息子)とは、「くそったれ」「この野郎」といった英語圏で最低の罵倒語である。定番のカウボーイ料理はなぜかそう呼ばれていた。

仙之助は、捕鯨船でこの言葉を覚えた。そう言えば、カウボーイのジョーイは口癖のように口にする。そうしたことからついた名称なのかもしれない。牛のロングドライブで料理人たちがカウボーイのために作る肉入り煮込み料理の総称のようなもので、決まった材料もなければ、作り方も千差万別だった。だが、料理人たちは、それぞれに自慢のサンバビッチ・シチューのレシピを持っていた。

ジムは鼻歌を歌いながらダッチオーブンを火にかけた。しばらくすると、美味そうな匂いの湯気があがってきた。

仙之助編二十一の一

カウボーイのジョーイはテキサスに向けて一刻も早く出発したくてうずうずしていた。

サワードゥのジムがブルズ・ヘッド・サルーンの切り盛りを任されていることが出発のさまたげだったが、主人のベン・トンプソンのやる気のなさに好機を感じていた。牛の季節が来たというのに、テキサス牛の出入りが禁止されたアビリーンには牛もカウボーイも姿を見せず、鉄道の延伸によってウィチタとダッジシティが新たな「牛の町」になると巷の噂になっていたのだから当然のことだった。

このところ、ベン・トンプソンは頻繁にブルズ・ヘッド・サルーンにやって来ては、カウンターでウイスキーをあおって愚痴をこぼす。
「フィルの事件で、アビリーンはケチがついちまったな」

いつも話題は、ブルズ・ヘッド・サルーンを開業したフィル・コーが射殺された事件にいきつく。事件のきっかけは、フィル・コーがサルーンの壁にペニスを勃起させた雄牛の絵を描いて住民を怒らせたことだったという。そこにやってきたのがアビリーンの保安官をしていたワイルド・ビル・ヒコックだった。

血気盛んなカウボーイたちの乱闘騒ぎが絶えない「牛の町」では、町の安全を維持するため、腕利きのガンマンを保安官として雇っていた。

西部開拓時代には、数多の保安官が活躍したが、アビリーンの二代目保安官であったワイルド・ヒル・ヒコックは、後世に名を残す有名な保安官のひとりだった。早撃ちの名手として知られ、彼が睨みをきかすアビリーンに無法者は近寄らなくなった。

早撃ちのビル

ワイルド・ビルは、卑猥な雄牛の絵を直ちに消さなければサルーンを焼き払うと忠告して、絵を消すためのペンキ職人を連れてきた。フィルは自分の店に勝手な振る舞いをするワイルド・ビルに激怒した。

店の外で取っ組み合いの喧嘩になった後、立ち去ろうとしたワイルド・ビルの背中に向かってフィルが発砲した。だが、二発とも弾は外れた。

その瞬間、それまで銃を持ち出すことのなかったワイルド・ビルが本気になった。そうなったら、早撃ちの名手に適う訳はなかった。フィルは撃たれて重傷を負い、数日後に息絶えたのだった。
「早撃ちのワイルド・ビルにかなう訳はないのに、馬鹿な奴さ」

ベンはいつもそう言ってため息をつく。
「そもそもあの事件が、牛のロングドライブで儲けている連中への怒りを焚きつけることになって、テキサス牛の立ち入り禁止にまでなっちまった」

そう言って、ベンが見上げた壁には、よく見ると雄牛らしき絵の残骸があった。問題の部分には、ワイルド・ビルの呼んだ職人が塗ったペンキ跡があって、何が描いてあるのかよくわからないが、それがアビリーンの衰退を招いた元凶らしかった。
「畜生、こいつのせいだ」

ベンはいつも最後には、雄牛の絵の残骸が残った壁に向かって悪態をつく。

仙之助編二十一の二

ある日のこと、ついにサワードゥのジムはブルズ・ヘッド・サルーンの主人、ベン・トンプソンに暇をもらいたいと切り出した。テキサスに行きたいという申し出を黙って聞いていたベンはぽつんと言った。
「そりゃあそうだよな。ここにいたって仕方ないよな」
「困っている時に世話になっておいて、すみません」

ジムは殊勝に頭を下げた。
「ふん、好きにしやがれ」

そう言うと、アビリーンの衰退のきっかけになった雄牛の絵にグラスを投げつけた。

酔っ払うと、そこらにあるものを投げつけるのはいつものことで、いつしか仙之助がその片付けをするのがならいになっていた。

店を開けていてもたいした儲けにはならないことに見切りをつけたようだった。

早速、ジョーイとジムはテキサスに出発する準備を始めた。勝手のわからない仙之助と富三郎には、二人に言われるままに手伝いをした。

ジョーイはどこからか、もう一頭の馬を調達してきた。

ジムは、チャックワゴンに食料を準備するのに余念がなかった。牛のロングドライブでは、酒の携帯が禁止されていたが、このテキサス行きは誰に雇われてするものでもない。稲妻と名づけた自慢のウイスキーを引き出しの中にしのばせた。

牛のロングドライブでは、当然ながら牛を連れて旅をする。牛は商品であるから、もちろん大切に扱うが、長い旅の途中で怪我をして動けなくなるものもあった。そうした牛は処分して解体し、カウボーイたちの食料になった。牛が同行しない今回の旅では新鮮な肉の入手は望めない。ジムは豆と塩漬けの豚肉と干し肉を余分に用意した。

もうひとつ、忘れてならないのがコーヒーだった。

カウボーイたちは食事のたびに、夜の見張りの時に、必ずコーヒーを飲んだ。好まれたのは強めのブラックコーヒーだ。チャックワゴン近くでおこした炭火の上にはいつもポットにコーヒーが準備されていた。強めに煎った美味いコーヒー豆を用意することも料理人の腕とみなされた。ジムはコーヒーの準備にも余念がなかった。

食料品の準備が終わると、ジムはブルズ・ヘッド・サルーンの部屋においていた身の回り品をチャックワゴンの荷台に積み込んだ。もっとも右半身の不自由な彼は、指示をするだけで、もっぱら荷物を運ぶのは仙之助だった。
「ジョンセン、お前がいてくれて助かったぞ」

ジムはそう言って、仙之助の肩を叩いた。

ジョーイが連れてきた新しい馬に富三郎は「イチ」と名前をつけた。元気の良い若い馬を見ていると、元年者の最年少だった石村市五郎こと「マムシの市」を思い出したからだった。英語で「Itchy」は「かゆい」を意味する。ジョーイは、おかしな名前だと笑い、富三郎のことをすっかり気に入った様子だった。

続く

次回更新日 

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお