山口由美
2019年02月04日更新

仙之助編二十の一から最新話まで

仙之助編二十の一

十七世紀、スペイン領メキシコに入植したスペイン人たちは、耕作に向かなかった新大陸で、牛を飼育することに成功した。気候が温暖で牛の放牧が容易だったからだ。最適だったのがメキシコ北部であり、後のアメリカ南西部、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州が含まれていた。特にテキサスでは、十八世紀になると、多くの牛が繁殖するようになり、十九世紀に「牛王国」と呼ばれるようになる基礎が築かれた。

テキサスがアメリカ合衆国の新しい州として併合されたのは一八四五年のことである。牛を求めてさらなる入植者がテキサスにやってきた。

牛の陸上輸送が、牛のロングドライブとして、ゴールドラッシュに匹敵する一攫千金の手段になった背景には、アメリカ大陸における鉄道網の整備があった。

牛を鉄道で運ぶという画期的な方法を考えついたのは、トーマス・キャンディ・ポンディングというイリノイに入植した若いイギリス系の農夫だった。入植前から牛の陸上輸送に経験のあった彼は、当初、イリノイから運んだ牛をウィスコンシンの入植者たちに売っていた。しかし、彼らが最初から牛を連れて入植するようになると、ウィスコンシンでの商売は下火になった。そこでポンディングは、たくさんの牛がいるテキサスに行くことを思いつく。一八五三年のことだった。

テキサスの牛をイリノイに運ぶのは、隣接する州であるイリノイからウィスコンシンに牛を運ぶのとは訳が違った。テキサスからネイティブアメリカンの保護領を通り、アーカンソーを経てミズーリ州のセントルイスに至る。緊張と困難を伴う旅だった。

セントルイスから牛を連れてミシシッピ川を渡り、イリノイに到着したポンディングは、ここで冬を過ごし、大部分の牛を売りさばくと、翌年の春、手元に残していた一五〇頭のとりわけよく肥えた牛をニューヨークに連れていくことを決心する。

牛を鉄道に乗せることを思いついたのは、インディアナ州のマンシーという町の鉄道駅に到着した時のことだ。彼の脳裏に何かひらめくものがあったのだろう。

当時の鉄道には、家畜輸送用の貨車はなかったし、一般の貨車に牛を乗せるのは大変な作業だった。テキサス牛の特徴である長いツノがとりわけ厄介だった。

スペイン人が入植時に持ち込んだのがテキサスロングホーンと呼ばれるこの牛だった。環境に適合した牛は一部が野生化し、アメリカの在来種であるバイソンを押しのけて繁殖した。テキサスに行けば牛がいくらでもいるとされた、ロングドライブブームの背景にテキサスロングホーンの大繁殖があったのだ。

テキサスロングホーン

ポンディングは、途中何回も貨車から牛を降ろして、草を食べさせたり水を飲ませたりしながら旅を続けた。長いツノは、貨車の乗り降りのたびに邪魔になり、へし折られることもあったが、彼の決意がゆるぐことはなかった。

ついに一八五四年七月、ポンディングはニューヨークに到着し、首尾よく牛を高値で売ることができた。ニューヨークの人たちは誰もが、遠いテキサスから来た牛だとは思わなかった。鉄道を利用した牛のロングドライブの始まりだった。

仙之助編二十の二

テキサスから牛を連れてきたトーマス・キャンディ・ポンディングは、ニューヨークの家畜市場でひとりの男に話しかけられた。彼は新聞記者だった。

ポンディングは意気揚々と自らの武勇伝を語った。記事が掲載された新聞はテキサスにももたらされ、多くの人々を奮い立たせることになる。

だが、牛のロングドライブには多くの困難が伴った。

そのひとつが、テキサスからのルートがネイティブアメリカンの保護領を通過することだった。当時、保護領に白人が立ち入ることを禁止した法律があり、彼らはそれを理由に通行料を要求したのである。

もうひとつの障壁が「テキサス熱」と呼ぶ牛の病気だった。

テキサス牛、すなわちテキサスビッグホーンが運んでくるダニが媒介する脾臓ひぞうの病気である。テキサス牛も罹ることはあったが、丈夫でたくましい彼らは死に至ることは滅多になかった。テキサス熱にやられたのは、もっぱら北部の在来種である角の短い牛だった。

この病気は、特にテキサス牛がミズーリを通過する時に、ミズーリで発生することが多かった。そのため、ミズーリの農民たちはテキサス牛を通行禁止にして追い出した。彼らはまた、テキサス牛が牧草を食い尽くすことも懸念していた。

ミズーリを通行止めにされたことで、牛のロングドライブはカンザスに迂回した。

ところが、ここにも彼らを悩ませる火種があった。当時のカンザス準州とネブラスカ準州では、奴隷制度の容認はそれぞれの政府の決定に任されていた。そのため、カンザス準州では、奴隷制度賛成派と反対派の間に血みどろの抗争があった。奴隷制度を容認する南部のテキサスは賛成派からは敵意を抱かれていた。

こうした理由により、テキサスからの牛のロングドライブは減少する。

さらなる大打撃を与えたのが一八六一年に勃発した南北戦争だった。ロングドライブのルートは、南部と北部の陣営に分断されてしまったのである。行き先を失ったテキサス牛は、さらに大繁殖することになる。温暖な気候と水に恵まれたテキサスでは、人の手を借りずとも牛はいくらでも育ったからである。

南北戦争が終わった一八六五年頃、テキサスの草原には、所有者のわからないおびただしい数の野生の牛がいた。

こうした状況に加えて、そもそもテキサスではアメリカ合衆国に併合する以前から、所有者のわからない牛は捕まえて自分のものにすることが許されていた。

所有者を判別する唯一の方法が焼き印だった。動物の、特に牛馬の横腹や臀部に、所有者を特定し、永久に消えない焼き印を押す方法は、スペイン人が古くから用いたもので、それが新大陸に持ち込こまれた。牧場にすべての牛を囲い込むことが出来ないことから、重宝された方法だった。それでも膨大な数の牛のすべてに焼き印を押すことができない状態がしばしばあったという。

南北戦争終結後のテキサスは、まさに「牛王国」であった。

仙之助編二十の三

一八六五年当時、テキサスの牛の価格と東部の市場で取引される牛の価格には、およそ十倍以上の差があったという。牛のロングドライブがゴールドラッシュに匹敵する一攫千金とされた理由である。

牛が集結する積み出し拠点として、最初に注目された鉄道駅は、ミズーリ州のセダリアだった。ミズーリ・パシフィック鉄道がセダリアまで延伸したことで、セントルイスや北東部の都市まで牛を運ぶことができるようになったからだ。

セダリアまでのルートは問題点も多かった。テキサス熱のために反対する農民たちの抵抗、ネイティブアメリカンの保護領における通行料などである。とりわけ人々が恐れたのは、カンザスの「ジェイホーカー」と呼ばれたゲリラだった。準州の時代、カンザスは奴隷制度を容認するかどうかで混乱したが、「ジェイホーカー」とはもともと反奴隷制の立場で闘った者たちを呼んだあだ名だった。ところが、彼らはテキサス熱の牛を阻止することを旗印に、強盗団になる者があとを絶たなかった。勝手に通行料を強要したり、牛を略奪したりして、反抗する者は容赦なく射殺した。

やがてセグリアまでのロングドライブは危険だということで、東寄りや西寄りのルートが開拓された。こうして生まれた新しいルートこそが、いわゆるカウボーイの活躍する舞台であり、牛のロングドライブの黄金時代を象徴するものとなる。

そのひとつが西部劇で知られる「チザム・トレール」である。スコットランド人の父とチェロキー族の母を持つジェシー・チザムが開発したルートだった。家畜商のジョセフ・マッコイがロングドライブのルートに使ったことで有名になった。

テキサスのサン・アントニオから続くトレールの終着点がカンザス州のアビリーンだった。言うまでもなく、カンザス・パシフィック鉄道の駅である。

マッコイはアビリーンに牛の売買ができる出荷拠点を設けることを思いつく。それまで牛で儲けようとする者は、牛を連れて鉄道で東部の都市まで行く必要があった。だが、マッコイの発案により、鉄道駅で牛を仲買人に任せることができるようになったのだ。

セグリアにとってかわって「牛の町」となったアビリーンには年を追うごとに多くの牛が集結した。最も数多くの牛が集まったのが一八七一年であり、その数は年間で七十万頭におよんだ。

ところが、山口仙之助と牧野富三郎がオマハで伊藤博文の一行と別れた一八七二年三月、アビリーンの運命を変える決定が下される。

牛のロングドライブに関与しない周辺住民が、テキサス熱への恐れやカウボーイたちの乱暴な振る舞いに業を煮やし、テキサスの牧場主に牛の立ち入り禁止を正式に伝えたのである。こうしてアビリーンが牛の売買を独占していた時代は終わりを告げる。一八七一年は繁栄の最後の年となった。

だが、牛のロングドライブがなくなった訳ではなかった。「牛の町」の主役がとってかわっただけのことだった。牛売買の拠点に名乗りをあげる町は後を絶たなかった。

仙之助編二十の四

仙之助と富三郎が「牛の町(Cow Town)」という言葉を聞いたのは、オマハの酒場でのことだった。牛でひと山あてるには、「牛王国」のテキサスに行かなければならないと思ってはいたが、テキサスの牛が運ばれてくる拠点が、ミズーリやカンザスの鉄道駅にある、「牛の町」であることを彼らは初めて知った。

酒場にたむろする男たちは「牛の町」と言えば、かつてはミズーリ・パシフィック鉄道のセダリアだったが、鉄道が西に延びてからは、新しい「牛の町」が生まれていると熱っぽく語った。いずれにしても、セントルイスからミズーリ・パシフィック鉄道で西に向かうルートだと言う。

オマハからセントルイスに行くには、いったんシカゴを経由する必要があった。シカゴで気づけばよかったのだろうが、伊藤博文との道中に夢中だったのだからしかたない。

セントルイスに着くと、ミズーリ・パシフィック鉄道は、セダリアからカンザス・シティを経て、アビリーンまで延びていることがわかった。途中のカンザス・シティが分岐点になっていて、サンタフェ鉄道という別の鉄道が建設中だと言われた。

サンタフェ鉄道こと、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が新たな「牛の町」であるウィチタに到達するのは一八七二年五月であり、さらに先の「牛の町」であるダッジシティに到達するのは同年九月のことだった。

一八七二年四月、セントルイスに到着した仙之助と富三郎にとっては、まだ鉄道が開通していなかったこれらの「牛の町」の選択肢はなかったことになる。

こうして二人はアビリーンの駅に降り立ったのだった。
「牛の町」には季節があった。

毎年、年の初めに放牧業者はテキサスの牧場を訪れて、牛の買い付けを行う。次に馬の買い付けを行い、カウボーイを雇用する。牛のロングドライブには、馬に乗って牛を誘導するカウボーイが不可欠だった。最初の牛の一群が到着するのは五月末頃で、「牛の町」が賑わうのは、それから秋の初めまでだった。初霜が降りる前には、カウボーイも牧場主たちもテキサスに帰っていった。

テキサスに野生の牛がたくさんいる状況は変わらなかったが、一八六〇年代後半になると、小規模な「牛狩り(Cow Hant)」が主流の時代は終わり、もっぱら大がかりな「牛の狩り集め(Roundup)」が行われるようになっていた。そうして集められた牛に焼き印が押され、牧場主は所有する牛を管理した。野生の牛を捕まえて、鉄道駅に連れて行く牛のロングドライブは、組織的で大規模なものだったのだ。

四月のアビリーンは、静まりかえっていた。

カウボーイの姿もなく、牛もいない。

活気溢れる「牛の町」を期待していた仙之助と富三郎は拍子抜けして、人通りもまばらな大通りに立ちすくんだ。本当にここが人々の噂したアビリーンなのだろうか。

不安を抱えた二人の足元に一陣の乾いた風が吹き抜けた。

仙之助編二十の五

アビリーンの大通りで仙之助と富三郎は「マーチャントホテル」という看板の掛かった建物を見つけた。

オマハのアーリントンホテルとは比べるべくもない、粗末な二階建ての木造の建物だった。それでも建物の真新しさが、この町が最近生まれたことを物語っていた。

長旅の旅装を解いて一息つきたかったし、町の情報も仕入れたかった。

中に入っても誰もいない。帳場にも人影はなかったが、半開きのドアの向こうに人の足らしきものが見えた。誰かが椅子に寝そべっている。
「すみません、部屋はありますか」

仙之助は足の見える方向に声をかけた。

しばらくすると、くしゃくしゃの髪を撫でつけながら赤ら顔の男が姿をあらわした。
「こりゃあ驚いた。こんな季節にお客さんかい」
「部屋はありますか」
「ああ、いくらだってあるさ。泊まってくれるだけで大歓迎だ。お前さんたち、いったい何をしに来たんだ。どう見たってカウボーイじゃないな。商人かい」
「アビリーンは牛の町だと聞いたので」
「ここに来ればいい商売になると思ったのか」
「まあ、そんなところです」
「いつもの年なら、あと一月余りしたらテキサスから牛とカウボーイが来るはずなんだが、今年は来ねえよ」
「どういうことですか」
「どうもこうもないさ。アビリーンに牛がやって来るのを面白く思っていない奴がテキサス牛を立ち入り禁止にしちまったのさ。テキサスの牧場にお達しをしたって言うんだから仕方ない。今年はアビリーンに牛は来ない、カウボーイも来ない、ということだな」
…………
「知らなかったんじゃ、驚くのも無理はねえよな」
…………
「まあまあ、お客さん、せっかく来たんだから、とりあえず泊まって休んでいきなよ。牛の季節には安くて美味い飯を出すんだが、今はあいにくコックも暇を出しちまった。だがな、ブルズ・ヘッド・サルーン(Bull‘s Head Saloon)は店を開けているぜ。去年開業して町一番の人気になったところさ。あそこに行けば、酒も飲めるし、飯も食える」

サルーンとは、西部劇にしばしば登場する開拓時代のアメリカに特有のバーである。カウボーイたちは、ここで酒を飲み、娼婦と戯れ、賭博もすれば喧嘩もした。

雄牛の頭を意味するブルズ・ヘッドの名前を冠したサルーンは、フィル・コーという賭博師でもあったテキサス生まれの商人とガンマンとして名を馳せたベン・トンプソンが開業したもので、アビリーンの歴史にも登場する。西部開拓史上有名なサルーンだった。

仙之助編二十の六

マーチャントホテルに部屋をとった仙之助と富三郎は、早速、ホテルの主人に教えられたブルズ・ヘッド・サルーンに出かけた。牛の季節であれば、カウボーイたちで賑わっているのであろう店内はしんと静まりかえっていた。

店の奥にカウンターがあり、店名の由来になった雄牛の頭が飾ってある。もちろん長い角を持つテキサスロングホーンである。

太った男がカウンターの中にいて、声をかけると立ち上がった。体が不自由なのだろうか、右足を引きずって大儀そうに歩く。
「何か食べるものはないかい」
「牛がいないから牛肉はないぞ。豆の煮込みならあるが、それでいいか」

携帯に便利で保存がきき、安くて栄養価の高い豆の煮込みは、牛のロングドライブの道中でも、カウボーイたちの基本的な食べ物だった。
「それで結構だ」
「酒はいいのかい。上等な稲妻もあるぜ」
「稲妻?」
「うちの自慢のウイスキーのことさ。稲妻のようにビビッと喉にくる」

当時、サルーンで飲まれた酒はもっぱらウイスキーで、さまざまな俗称で呼ばれることがあった。醸造技術が悪かったため、アルコール度数は二十度程度しかなく、カウボーイたちはあおるように飲んだ。得体の知れない液体を混ぜた偽酒も横行していた。
「とりあえずは腹をいっぱいにしたい」

仙之助が答えると、太った男は奥のキッチンに消えていった。

まもなく豆の煮込みとパンが運ばれてきた。

豆の煮込みとサワードゥ

豆の煮込みはまあまあだったが、パンが美味かった。見た目は無骨だが、ほんのりと酸味があり噛めば噛むほど味わい深い。ワシントンやオマハの高級ホテルでお相伴にあずかった時の白いパンよりよほど美味しい。横浜でもハワイでも食べたことのない味だった。
「うまいなあ」

仙之助が感慨深くつぶやくと、太った男がすかさず反応した。
「うまいだろう。俺が大切にしているサワードゥで焼いたパンだ」

そう言って、人懐っこい笑顔を見せた。
「サワードゥ?」
「町のパン屋が使うイースト酵母とは違う。こいつは生き物でな、大切に面倒を見てやらなきゃならん。牛のロングドライブにも連れていって、時々はこいつでパンを焼く」
「ロングドライブに加わったことがあるのかい」
「ああ、料理人として何度も旅をしたさ。サワードゥのジムと言えば、チザム・トレールじゃ知らないものはいない」

男はジムと名乗って得意げな顔をした。

続く

次回更新日 

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお